大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和28年(を)2号 判決 1954年5月29日

主文

被告人を懲役参年に処する。

原審における未決勾留日数中百八拾日を右本刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

〔罪となるべき事実〕

被告人は昭和八年八月茨城県巡査を命ぜられ鉾田警察署に勤務し、その後巡査部長に進み、水戸警察署を経て昭和八年一月大宮警察署に転じ、爾来同署において経済保安係主任として経済事犯の捜査その他の職務を担当して来たものであるが、昭和十九年一月二十一日午前十時頃から同十一時頃まで及び同日午後一時過頃から同四時頃まで、同警察署経済保安係室において、同県那珂郡長倉村加最炭坑の現場監督であった大槻徹(当時四十七年)を経済事犯の被疑者として取調中、手拳又はその他の鈍器を以て同人の頭部を数回殴打して暴行を加え、因って同人をして翌二十二日午前五時過頃同署留置場内において、外傷性蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔出血に基き死亡するに至らしめたものである。

〔証 拠〕

第一、被告人の本件発生までの警察官としての経歴並びに本件当時における担当職務が判示のとおりであったこと、及び被告人が昭和十九年一月二十一日午前十時頃から同十一時頃まで及び同日午後一時過頃から同四時頃まで同署経済保安係室において、判示大槻徹を経済事犯の被疑者として取り調べたことは、いずれも被告人の当公廷におけるその旨の供述によりこれを認める。

第二、右大槻徹が翌二十二日午前五時過頃同署留置場内において死亡した事実は

一、被告人の当公廷における二十二日(昭和十九年一月)朝五時か五時一寸過頃宿直をしていた内勤の細谷巡査が私方へ来て「長倉から来た大槻が死んじゃった、今皆の処を回って歩いている」云々と申したので、私は始めて大槻が死亡したことを知った旨の供述(記録第三冊一三九六丁=以下、単に「記〔3〕一三九六丁」という如く、記録番号を略記する。)

一、差戻後の当審証人細谷富五郎の当公廷における私は昭和十九年一月二十一日午後五時から翌二十二日午前二時まで判示大宮警察署の宿直勤務に服し、右勤務を終ってから留置場前の宿直室で就寝したところ、二十二日午前五時頃留置人の大槻徹の変な鼾で目を覚まし、看守の伊藤巡査と共に大槻のいる一号房の中に入り同人の腕を掴んで五、六回「どうしたどうした」と揺り動かしたが、その時は既に鼾は止んでおり、額に手を当てたり目を開けて見たが反応がなく、もう駄目だと思った。更に脈を取って見たが、脈も殆んどなかった。そこで伊藤巡査が警察で頼みつけの根本藤蔵医師を迎えに行き、そのうちに小使も起きて来たので、私と小使で署員に連絡することとし、私は最初根本部長、次に植田刑事、大塚部長の家へ知らせに行った旨の供述(記〔3〕一四八四丁乃至一四八七丁)

一、予審の証人伊藤栄三郎に対する訊問調書写(昭和二十二年押第一七号の一五=以下、単に「押一五」と略記、その他の押収番号もこれに準ずる)中、同人の供述として、私は昭和十九年一月二十二日午前二時から小沢巡査に代り判示大宮警察署留置場の看守席に着いたが、その時大槻はスヤスヤ眠っていた。午前五時頃突然かなり強い鼾が聞え、三、四分すると愈々高くなり、次第に呼吸逼迫の様子なので差入口から手を入れて蒲団を引っ張り、五、六回呼んだが鼾を止めず、この時細谷巡査が北側の硝子戸を開けて「どうした」と声をかけた。私は鍵をあけて半身房内に入り腕を引っ張ると鼾を止めたが目を開けず、そこへ細谷巡査が来たので二人で房の中に入り細谷巡査が脈を見、眼を開けて見たが「もう駄目だ」といった。咽喉を見たが、変化はなかった。大槻が最初鼾をかき出してから息が絶えるまで、二十分位かかったと思う旨の記載(同訊問調書写一四乃至二十問答)

一、差戻前の当審第五回公判調書(昭和二十三年三月十九日附)中証人根本藤蔵の供述として、私は昭和十九年一月二十二日午前五時半頃判示大宮警察署の留置場内で死亡した大槻徹の死体検案をしたが、その時は同人の死後幾らも時間が経っていないと推定した旨の記載(記〔2〕一一〇九丁)

を総合してこれを認める。

第三、大槻徹の死因が判示の如く、外傷性蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔出血に基くものであることは

一、鑑定人古畑種基、同村上忠男共同作成名義の本屍頭部解剖による鑑定書写(昭和十九年二月二十二日附)=以下単に「古畑頭部鑑定書」と略称=(押二〇)中(1)本屍の死因は脳溢血の如き病死ではない。(2)本屍は頭部に外力を受け、その結果蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔に出血し、遂に死亡するに至ったものと推測する旨の記載(同鑑定書写第四章一、二項)

一、鑑定人中館久平作成名義の本屍頭部解剖による鑑定書写(昭和十九年三月二十七日附)=以下、単に「中館頭部鑑定書」と略称=(押一八)中頭部内景検査において(1)大脳左右頭頂葉頂部の硬脳膜組織間の出血及び硬脳膜内外両葉に広汎にして高度の出血。(2)左小脳下面の硬脳膜組織間の出血、硬脳膜内外両葉における広汎高度の出血。(3)大脳左右両半球の穹窿部及び底部に広汎高度の蜘蛛膜下腔出血。(4)左右小脳の上下両面の広汎高度の蜘蛛膜下腔出血を認め、是等内景に存する脳膜出血は極めて重傷にして、直接の死因となり得。而して是等出血は、何れも特殊疾患によりて偶発せるものにあらずして、頭部に鈍力の作用することによりて(鈍器打撲によりて)生じたる外傷性のものなることは、出血の部位、程度等より極めて明瞭なる旨の記載(同鑑定書写、鑑定主文二項)

一、鑑定人桂重次作成名義の鑑定書(昭和二十一年十月四日附)中外科医としての脳手術経験及び脳外傷の臨床経験より古畑、中館両氏の鑑定書に現われた所見を考按するに、死因は蜘蛛膜下腔の広汎な出血で、その出血部位は脳表の脳静脈が硬脳膜正中部を縦走網、矢状竇に入る部分の破裂によるものと思考せらる。即ち、この部の血管壁は極めて薄く且つ硬脳膜に固定せらるるを以て比較的僅微な外力で頭皮、頭蓋骨に損傷ない位のものでも破綻することがあり得ることは、脳外傷の臨床経験、脳疾患の手術経験によって明らかである。即ち、この部位における出血は、常に外傷によって起るもので、特発性蜘蛛膜下出血の好発部位ではない。以上の如く、本件の蜘蛛膜下出血は外傷性のものである旨の記載(記〔1〕五〇八丁及び五〇九丁)

一、差戻前の当審証人桂重次に対する嘱託による第二回訊問調書添付の同人作成名義の「証言」と題する書面(以下単に桂医師の「証言」と題する書面と略称)中本件が外傷性のものなることは、頭部皮下に出血あること剖検上矢状竇の損傷ありと認められることにより明らかである旨の記載(記〔2〕一〇八九丁)

一、差戻前の当審証人中沢房吉に対する嘱託による第二回訊問調書添付の同人作成名義の「補充訊問事項に対する証言」と題する書面(以下、単に中沢医師の「補充訊問事項に対する証言」と題する書面と略称)中本例が外傷に基因しておることは、古畑、中館両鑑定人の鑑定書並びに資料から疑のないところと思われる旨の記載(記〔2〕一〇九九丁)

一、差戻後の当審証人清水健太郎の当公廷における古畑、中館両鑑定書から見て、本件脳膜出血は右鑑定書記載のとおり外力によるものに間違いないと思う旨の供述(〔4〕記一八九五丁)

一、鑑定人古畑種基作成名義の本屍胴体解剖による鑑定書写(昭和十九年三月三十一日附=押一九)中本屍の胴体には、直接死因となるような損傷も疾病も存在しない旨の記載(同鑑定書写第五章二項)

一、鑑定人中館久平作成名義の本屍胴体解剖による鑑定書写(昭和十九年三月二十三日附=押一七)中本屍胴体において直接死因となるべき創傷(致命傷)及び高度病的変化(疾病)の存在を認めない旨の記載(同鑑定書写、鑑定主文四項)を総合してこれを認める。

第四、次に右大槻徹の外傷性蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔出血の原因について考究するに

一、強制処分における証人古畑種基に対する予審判事の昭和十九年四月四日附訊問調書写(押一二)中同人の供述として、本件において自傷の可能性は外力の加えられた際の具体的環境が明らかでない限り、解剖的所見だけからは明言できないので、絶対的に不可能とはいえないが、しかし脳内部の出血が高度である点から本人の行為によるものと見るのは妥当でない旨の記載(同訊問調書写四問答)

一、予審の証人古畑種基に対する昭和十九年五月十六日附訊問調書写(押一三、一六)中同人の供述として大槻が監房に出入する際、過って頭を入口に打ちつけた位のことでは、本件のような汎発的且つ広汎な蜘蛛膜下出血は生じ得ない旨の記載(同訊問調書写四七問答)

一、差戻後の原審証人古畑種基に対する昭和二十一年八月十三日附訊問調書中同人の前同旨の供述記載(記〔1〕四〇三丁)

一、差戻後の当審証人古畑種基の当公廷における本件の出血は大槻が普通の監房で使う蒲団二枚を一度に抱えて房外から中へ這入る際に頭を入口で打って生じたものとは認め難い。もっと強い衝撃でなければ起らないであろう。なお、被害者が真正面から打撃を受けた痕跡もない旨の供述(記〔4〕一六八六丁)

一、中館久平に対する検事の昭和十九年三月十六日附聴取書写(押一二)中同人の陳述として、酩酊して堅い路面上に倒れて頭を打ったような場合にも本件の如き出血を生ずることがないとはいえないが、頭部両側の外傷が存する以上、自ら倒れたために生じた出血と見るのは余程、困難である旨の記載(同聴取書写一〇項)

一、予審の証人中館久平に対する昭和十九年五月十五日附訊問調書写(押一三、一六)中同人の供述として、出血部位が汎発的なので、大槻が監房出入の際、過って頭を出入口に打ちつけたため本件の蜘蛛膜下出血を来したとは考え得ない旨の記載(同訊問調書写四二問答)

一、差戻後の原審証人中館久平に対する昭和二十一年八月十三日附訊問調書中同人の供述として本件のような外傷性蜘蛛膜下腔出血死は、精神病者が自分で打ったような場合には起り得るかも知れないが、普通の人では見られない。私はこの種のものを二百件以上取り扱って来たが、自分でやったというものは一つもない旨の記載(記〔1〕三八一丁)

一、鑑定人中沢房吉作成名義の鑑定書中、本件の如き結果を惹起するような外傷が、留置場の如き狭い場所で過失により或は自殺の目的で起り得るとは考えられない。過失の起るのは暗夜に歩行中崖から墜落する等の場合であり、自殺のできるのは高い場所から地面へ真倒に身を投げる等の場合である旨の記載(記〔1〕五二〇丁)

一、鑑定人桂重次作成名義の鑑定書中、本件外傷が本人の過失又は自殺によって起されたとは考えられない旨の記載(記〔1〕五一三丁)

を総合すると、大槻の死因たる外傷性蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔出血は、同人自身の故意又は過失によって生じたものではなく、人為に因るものであることを認めるに充分である。

第五、よって進んで、被告人が判示の如く大槻徹を取調中、同人に対し暴行(判示手段方法等を除く)を加えた点につき審按するに、被告人は終始一貫して大槻に対し何等の暴行をも加えたことがない旨強弁し、且つ一人の目撃者も現われていない本件においては、専ら後記の情況証拠を資料として、条理に基く採証法則、経験則乃至論理則に従って事実を認定する外はないので、以下、項を分って順次関係証拠を検討する。

〔一〕被告人を本件の加害者であると認定するためには、先ず、被告人が大槻の受傷当時、同人と何等かの交渉を持ち、同人に接する機会を有したことを確定しなければならない。それには大槻の受傷時と死亡時との時間的間隔を明らかにすることを先決とする。よってこの点に関する証拠を蒐集するに

一、差戻後の当審証人古畑種基の昭和二十八年五月二十日の当公廷における本件被害者大槻徹の受傷から死亡までの時間的間隔は大体二十四時間以内であるが、脳震盪を併発したとすれば、もっと短い可能性がある旨及び同証人の昭和二十九年一月二十八日の当公廷における前記時間的間隔は大体十時間内外が妥当で、幅を取れば三時間乃至十五、六時間で二十四時間を超えることはない旨の各供述(記〔3〕一四二九丁、一四三〇丁及び記〔4〕一六八一丁)

一、差戻後の当審証人中館久平の当公廷における本件被害者の受傷から死亡までの時間的間隔は解剖所見のみからは判定困難であるが、所見と経験とを総合して推定することはできる。私は終戦後も四十例程取り扱ったが、その統計を取って見ると、そのうち三分の二位は二十時間以内で死亡しており、内五、六例が脳挫傷を伴っていたため五、六時間以内で死亡している。本件の場合も二十時間内外と推定される。私の経験では二十一時間以上三十時間というのは僅か五、六例しかない旨の供述(記〔3〕一四四七丁、一四四八丁)

一、鑑定人大槻菊男作成名義の鑑定書中、大槻徹は受傷後数時間乃至十数時間で死亡したことと思う。長くも二十四時間は超えなかったろうと推測する旨の記載(記〔3〕一六一三丁、一六一四丁)

一、鑑定人清水健太郎作成名義の鑑定書中、大槻徹の受傷から死亡までの時間的経過は数時間乃至十数時間位のものであ、最も死亡に大きく関係したと考えられる後頭蓋腔内に出血を来した衝撃後は、長くも数時間は持たなかったと考えられる旨の記載(記〔3〕一五八四丁)

一、鑑定人中沢房吉作成名義の鑑定書中、本件の場合、受傷から死亡までの時間は恐らく二十四時間以内とするのが妥当である旨の記載(記〔1〕五二一丁)

を挙げることができるのであって、以上を総合要約すると大槻徹の受傷から判示死亡に至るまでの時間的間隔は「数時間乃至十数時間、長くも二十四時間以内」と推定し得るのであり、従って前認定に係る大槻の死亡時、即ち昭和十九年一月二十二日午前五時過頃を基準とすれば、大槻の受傷は同月二十一日午前五時頃から翌二十二日午前二、三時頃までの間であると認められる。

〔二〕然らば、本件の加害者は、右推定期間中に大槻と何等かの交渉を持ち、同人に接する機会を有した者のうちから、これを探索しなければならない。よって、この点について考察するに、被告人の当公廷における供述(記〔3〕一三七九丁以下)、差戻前の当審証人長洲忠男、同斎藤光之助に対する各訊問調書(記〔2〕八九五丁以下及び同八三〇丁以下)、予審の証人伊藤栄三郎に対する訊問調書写(押一五)の各供述記載及び差戻後の当審証人小沢捨吉、同仲川六衛門の当公廷における各供述(記〔3〕一四五八丁以下及び同一五三六丁以下)を総合すると、大槻は同年一月二〇日午後七時頃長倉村駐在の長洲忠男巡査に連行されて判示大宮警察署に到着し、判示日時死亡するまで同署に留置されていたものであって、前記推定期間中大槻に接する機会を有した者は、同署の職員及び同房者に限られており、現に該期間中大槻に接した者は、左記五名を出でないことを認めるに充分である。而して、その五名が大槻に接した時間的経過は

(1) 斎藤光之助巡査--一月二十一日(以下、単に月日を表示したものは昭和十九年中とする)午前二時から同日午後五時まで同署留置場の看守勤務に服した(同人に対する前掲証人訊問調書中のその旨の供述記載)。

(2) 仲川六衛門--大槻が同署に留置された一月二十日午後七時頃から翌二十一日午前六時頃までの同房者であって、同朝水戸検事局へ送致された(同人の当公廷におけるその旨の供述)。

(3) 被告人--判示のように一月二十一日午前十時頃から同十一時頃まで及び同日午後一時過頃から同四時頃まで大槻を経済違反被疑者として取り調べた(被告人の当公廷におけるその旨の供述)。

(4) 小沢捨吉巡査--一月二十一日午後五時から翌二十二日午前二時まで同署留置場の看守勤務に服した(同人の当公廷におけるその旨の供述)。

(5) 伊藤栄三郎巡査--一月二十二日午前二時から同日午後五時まで同署留置場の看守勤務に服した(同人に対する前掲予審訊問調書写中のその旨の供述記載)。

と認められる。

〔三〕よって、前項列挙の大槻徹との交渉関係者五名について判示加害嫌疑の有無を審究するに、前記斎藤光之助、小沢捨吉、伊藤栄三郎の三巡査は、いずれも前叙の如く単に看守勤務に服したのみであるから、特に大槻が房内の規律に反するとか、その他看守者に反抗してその感情を害するような行動に出ない限り、妄りに暴行を加える如きことは、凡そ想像し得ないところである。而も大槻が、かかる行動に出たことを窺うべき何等の形跡も存しないので、右三巡査はいずれも加害嫌疑者のうちから除外されなければならない。

次に前記仲川六衛門は前示の如く、一月二十日午後七時頃から翌二十一日午前六時頃までの同房者であるが、同人の差戻後の当審における供述及び差戻前後の原審における各供述記載をはじめ、全記録を精査しても、同人が大槻に対して何等かの暴行を加えたような事実を認むべき証拠は更に存しないので、同人も亦、本件加害嫌疑者の圏外に置くの外はない。

〔四〕そこで最後に残る被告人について具さに判示加害の有無を検討する順序となるが、それには先ず被告人が大槻を取り調べた経過並びにその模様を考察しなければならないから、この関係証拠を見るに

一、被告人の当公廷における私が大槻を調べるようになった経緯を申すと、その日朝八時頃出勤し経済保安係の自室に入ると、私の机の上に大槻の経済違反があるから調べて貰いたいと認めた半紙(押二の(ロ))が置いてあった。それは判示長倉村駐在の長洲巡査の書いたものだったが、大槻には他に賭博の件があるとのことだったので、渡辺司法主任の処へ行き賭博の調は済んだか什うかを聞くと、こちら(賭博の件)は昨夜のうちに決まったが、大槻には経済違反があるようだから調べて呉れというので、私が大槻を調べることになったのである。その日私は大槻を午前と午後の二回取り調べたが、午前の時は九時か九時半頃に調べ始めた。原審で調べ始めた時刻を九時半か十時頃或は十時一寸過頃と述べているとすれば、その方が正確だと思う。私は斎藤巡査に連れられて私の部屋へ入って来た大槻を机の前に掛けさせ、長洲巡査が書いて置いて行った紙を見てから大槻に対し「お前がここへ来たことについて何か心当りがあるだろう」と聞いた。大槻は「済みません」などといっていたが、更に「心当りはないか」と聞くと「心当りはない」というので、私は戦の激しいことや、家族が心配しているだろう等ということを諭す意味で話して聞かせた上「心当りがないなら考えつくまで入っていろ」といって大槻を房へ帰した。それが午前十一時頃だったと記憶する。大槻を房に下げる前後頃、同人の態度、顔色等を格別変りはなかったが、私が謝まるまで入れて置くからといったせいか意気銷沈しているように感ぜられた。午前の調を了えた時には、午後も引続いて大槻を調べる心算はなく、同人は未だ入って来たばかりだから、もう一晩留めて置いてもよいと思ったし、その次の日に相手の関いちを呼び出し、同女を調べてから大槻を更に調べようと思っていた。ところが、看守の斎藤巡査から大槻が正直にいうから調べて貰いたいといっているが什うするかと聞かれたので、それなら調べようということで午後一時か一時半頃大槻を呼び出したのである。私は大槻が入って来た時「どうだ解ったか」というと、大槻は「先程は嘘をいって済まなかった、今度は正直にいうから早く調べて帰して呉れ」といった。それで取り調べたところ、数量は大したことはないが、卵、小豆、米等を買ったというので、それを備忘録と表示した下帳(押二の(イ))にメモをした。その時の大槻の供述態度は、俯向き勝でスラスラ述べた訳ではなく、日時や品物等を考え考え述べたように思う。言葉つきもおとなしい声で、聴き取るのには差支えなかったが、ハキハキした態度ではなかった。午後の調べは三時半か四時頃まで掛ったと思うが、聴取書は作らなかった旨の供述(記〔3〕一三七九丁乃至一三九二丁)

一、差戻前の当審証人斎藤光之助に対する昭和二十二年五月二十三日附訊問調書中同人の供述として、一月二十一日午前十時過頃大槻徹は大塚部長に連れられて房を出て午前十一時頃帰房した。それから三十分位過ぎた頃大槻が私に対し「今、調を受けた時は嘘をいったが、今度は本当のことをいうから大塚部長に話して呉れ」というので、私は経済室へ行き大塚部長にそのことを話すと、それでは昼飯を食べてから調べるというので、そのまま帰り中食には「うどん」を食べさせた。それから午後一時過頃大塚部長が大槻を連れて行った旨の記載(記〔2〕八三九丁、八四〇丁)

一、差戻後の当審証人小沢捨吉の当公廷における私は看守勤務に当るため一月二十一日午後四時か四時半頃大宮警察署に着き事務室や経済保安係室へ挨拶に行った。その時大塚部長は経済保安係室で被疑者を調べていた。それから私は看守席へ行き斎藤巡査と話していると、大塚部長が被疑者を留置場へ連れて来た。その被疑者が大槻徹であることは後で判った。私が大塚部長に挨拶してから同部長が大槻を留置場へ連れて来るまでの時間は、大体三十分位であった旨の供述(記〔3〕一四六〇丁乃至一四六四丁)

一、被告人が一月二十一日朝大槻を取り調べるに先立ち、自室の机上に置かれてあったという長洲忠男巡査執筆に係る被疑事実報告書(押二の(ロ))に、大槻徹の氏名、年令、職業、現住所、本籍を冒頭に掲げた後「右者小瀬村大字国長関いちヨリ白米一升一円二十銭乃至一円五十銭デ相当取引ヲナシ居ル風評アリ、尚一月十日夜大槻ハ関いち方ニ於テ餅ヲ搗キ東京方面ニ相当多量ニ運搬シタル事実アリ、御取調相成度シ」(原文のまま)とある記載

一、被告人が一月二十一日の午後の取調において大槻の自供に基き被疑事実をメモしたという備忘録(押二の(イ))中同人の関係部分としては「一、八月中一斗十円。一、九月二十日頃五升四円一、九月末日頃五升五円。一、十月末三升三円。一、餅十二月二十二、三日頃五升餅十円。一、一月十日頃五升餅十円支払」なる記載のみの存在

等を挙げることができるのであって、これらの証拠を吟味すると

一、被告人のみが前示推定期間中に前後約四時間にわたって大槻を経済事犯の被疑者として取り調べたという深い交渉関係を持っていること

一、その午前の取調に際って大槻が、関いちから白米等の闇買をしたとの被疑事実を極力否定したこと

一、そのため被告人は、午前中は大槻の自供を得ないままで昼食前に一応取調を打ち切ったこと

一、ところが帰房後、大槻が看守の斎藤光之助巡査を通じて、自白するから又調べて貰いたい旨を申し出たので、同日午後一時過頃から再び被告人が取調を開始したという経緯の存すること

一、その午後の取調においても、大槻はハキハキした応答をせず、考え考え述べるという風で午後四時頃まで掛ったが、聴取書をも作成するに至らず、被告人は再び同人を留置場に下げて、更に同夜も留置する処置を採ったこと

一、午後の取調において大槻の応答が遅々たるものであったにしても、同人の自供した被疑事実の内容(前掲備忘録記載)に比し、長時間を要していること

一、前二項に関連して、被告人は午後の取調においても大槻の自供と長洲巡査の被疑事実報告書(押二の(ロ))に示された被疑事実との間に喰違いがあると認め、大槻の供述になお疑念を抱いていたものと推測されること

等の諸点を要約闡明することができる。殊に最後の点は

一、予審の証人根本常之介(当時の大宮警察署勤務巡査部長)に対する昭和十九年五月六日附訊問調書写(押一五)中同人の供述として、大槻の死亡当日たる一月二十二日の午前七時頃同署に行って見ると事務室に大塚経済主任がおり、私に向って「大槻は東京方面に米等を送ってやるために闇をやっている形跡がある」と申したり、「未だ調べれば調べることもあるのだから帰さなかった」と申していた旨の記載(同訊問調書写一八問答)

一、差戻前の原審における昭和十九年十月六日附公判調書写(押一四)中証人四倉繁作の供述として、私の会社(常北陸運株式会社)では加最炭坑で採掘した亜炭を現場から大宮駅や茨城鉄道御前山駅等に運搬している関係上、予て知合の同炭坑の支配人格である山岸幸作の依頼により一月二十日午後四時頃、大宮警察署附近の十字路で大塚部長に会い「明日加最炭坑の者が賭博事件で呼ばれて来るそうだが、経済の方にも関係があるそうだから、来たら成るべく寛大に取り扱って貰いたい」と簡単に頼んだところ、大塚部長は、ただ「うん」といっただけであった。その翌二十一日の晩大宮町南町の高岡午義方で開かれた祐川特高係巡査部長の壮行会の席上で、大塚部長に「昨日頼んだ加最炭坑の者来ましたか」と尋ねると、同部長は「来るのは来た、調べて見たところ大したことはないが、一寸喰違いがあったので今日は留めたが明日は帰せるだろう」といった旨及び一月二十二日午前七時頃私方へ氏家庄治郎、山岸幸作、青木六助の三人が参り、その朝大槻が大宮署の留置場で死んだことを聞かされた旨の各記載

一、差戻前の当審並びに差戻後の当審における証人四倉繁作に対する各訊問調書中同人の前同趣旨の各供述記載

一、押収に係る便箋メモ(押六)中「氏家氏曰ク、二十二日四倉氏ノ所へ行ッタラ氏家曰ク『大槻が死ンダ』トイフ。四倉『相当ヤキヲ入レタンダナ』トイフ。前日、大塚ト四倉ト二十一日ニ会ッタ時ニ大塚曰ク『今日大槻ニヤキヲ入レタ』トイフタ、ト四倉氏ガ氏家ニ話シタ。又四倉曰ク『永須ノ報告書ト大槻トガ喰ヒチガヒガアルノデ』」、原文のまま)なる記載

一、差戻後の当審証人正木昊の当公廷におけるお示しの便箋メモ(押六)は昭和十九年一、二月頃氏家庄治郎が私に話したことを私がメモしたものであって、その内容は二十二日に氏家が四倉の処へ行き「大槻が死んだ」というと四倉が「相当ヤキを入れたんだな、二十一日大塚と会った時に大塚が『今日大槻にヤキを入れた、それは長洲巡査の報告と大塚のいうことが喰い違っていたからだ』といっていた」といった、との趣意である旨及びこのメモは長洲巡査のことを永須と書いてあるから、私が未だ長洲巡査の名前を知らなかった時に書かれたもので、恐らく古畑博士が鑑定される前であり、私が本件について行動を開始する前提となったものである旨の各供述(記〔3〕一八七九丁、一八八〇丁)

等をも併せ勘案するときは、更にその消息を明確に把握し得べく、以上の諸点を総合すると、被告人は大槻に対する取調が円滑に進まぬ情況下に置かれ、渋滞勝な同人の供述に疑念を抱き、被疑事実の全貌を究明せんがため、同人に対し強制手段として暴行を加うべき立場にあったものであり、而も被告人がその立場にあった唯一の者であると判定することができる。(大槻の死因たる判示脳膜出血が、前段認定の如く、人為に因る外傷性のものである以上、大槻に対する右強制手段は、外力としての暴行の外にあり得ないこと多言を要しない。)

〔五〕以上の認定事実に加え、被告人の右取調後における言動に関して、更に左記のような情況証拠がある。

<A> 被告人が大槻を取り調べた時間を、ことさら、短縮して上司及び検事に報告、供述したこと

被告人が大槻を取り調べた所要時間は前認定のとおり午前約一時間、午後約三時間であるに拘らず、被告人は一月二十二日午後五時半頃出張先の水戸市から帰署した当時の大宮警察署長寺田福三郎に対し、午前の取調も午後の取調も三十分乃至一時間位しか掛らなかったと報告し(予審の証人寺田福三郎に対する昭和十九年五月十一日附訊問調書写=押一五=二七及び二八問答)、又一月二六日検事から取調を受けた際にも、午前の取調は十時頃から約一時間と述べているが、午後の取調は二時過頃から開始して約三十分位で終ったと述べている(被告人に対する検事の同日附聴取書写=押一二=五項及び六項)。この午後の取調の所要時間を検事に対し約三十分と述べた点に関し、被告人は「それは大槻を取り調べていた際の前後の所要時間という意味ではない。大槻は自白と自白との間に時間が掛り、これをも算入すると相当長くなる。私が午後の取調の時間を三十分といったのは、この自白と自白との間の所要時間を含まないのであって、私の間と大槻の答とに要した正味の時間を集計すると三十分位であったという意味である」と弁解している(被告人に対する昭和十九年六月二日附第六回予審訊問調書写=押一四=一問答)。しかしながら、被告人に対する検事の前掲聴取書写中右該当部分の供述内容を見ると、到底被告人の弁解するような正味の取調時間を述べたものとは解されないばかりでなく、苟くも当時、経済保安係主任として経済事犯の捜査に当っていた被告人が、被疑者を取り調べた時間を尋ねられて、かような正味だけの時間を、而もその旨を断わることもせずに述べるというが如きは、常識上首肯し得ないところであって、寧ろ故意に午後の取調時間を短縮して述べたものと解するの外はない。

<B> 被告人が大槻の死亡を知らされてから大宮警察署へ行くまでの時間が掛り過ぎていること

本件当時における被告人方と大宮警察署との距離は約五百米位で、徒歩にて約五、六分、精々十分以内であるに拘らず、被告人は一月二十二日午前五時半頃細谷富五郎巡査から大槻の死亡を知らされ、至急来署を求められながらその後三、四十分も経て署へ出向いている(差戻前の当審証人細谷富五郎に対する昭和二十二年五月二十三日附訊問調書中の供述記載=記〔2〕八七五丁乃至八七九丁、同人の差戻後の当審公廷における供述=記〔3〕一四八七丁乃至一四八八丁」被告人に対する検事の昭和十九年四月四日附聴取書写=押一二=一、二項、同年四月十九日附予審訊問調書写=押一三=四五及び五〇問答、昭和二十一年四月九日附差戻後の原審第二回公判調書中の供述記載=記〔1〕九八丁、一〇〇丁、差戻後の当審公廷における供述=記〔3〕一三九六丁乃至一三九八丁)。この点につき被告人は、大槻が脳溢血で死んだということだったので、病気で死んだのなら慌てて行っても仕方がないと思い、一服つけてから行った旨弁解しているが(前掲差戻後の原審第二回公判調書中の被告人の供述記載=記〔1〕一〇〇丁、差戻後の当審公廷における被告人の供述=記〔3〕一三九八丁)、かりそめにも自ら取り調べて留置した被疑者が、自署の留置場内で急死したとの報を受けたからには、先ず取るものも取り敢えず署へ駆けつけるのが当然であり、現に被告人が署へ出向いた時には、既に同署の幹部職員が殆んど出揃っていた事実(前出証拠)に徴するも、被告人の謂われなき遅参は明白であり、右弁解を以てしては、到底これを覆うべくもない。

<C> 被告人自ら大槻に暴行を加えたことを四倉繁作に洩らしたと推測されること

この点は前記〔四〕に採用した便箋メモ(押六)の記載並びに差戻後の当審証人正木昊の証言によっても、これも窺い得るが、更に

一、差戻後の当審証人氏家庄治郎の当公廷における(1)私は判示加最炭抗に昭和十七年三月頃から昭和二十二年頃まで勤め、第一抗の最高責任者であった。昭和十九年一月二十二日の朝六時頃、長倉村駐在所の長洲巡査から大槻徹が大宮警察署の留置場で死んだから引き取って呉れといって来たので、山岸幸作と二人で四倉繁作方へ行った。私達がその時同家へ行ったのは、その前に大槻のことについて四倉さんから大宮警察へ隠便にして呉れるよう話して貰いたいと同人に頼んで置いたからである。四倉方へ行くと、そこに青木六助さんもいた。前の尋問の時に四倉方へ行く途中で青木さんと一緒になったと申しているとすれば、或はそうだったかも知れない。兎に角、四倉方では店先の炉端に上り山岸、青木、四倉、私の四人がいる処で私や山岸から大槻が警察で死んで引き取れといって来たことを話した。それに対し四倉さんの申した言葉は、現在はっきりと思い出せないが「弱ったなあ、警察であんまりヤキを入れ過ぎたんだろう」と四倉さんがいったことは、現在も記憶している。「ヤキを入れる」というのは乱暴することである旨 (2)私は大槻が死んだ翌日私一人で上京し、佐藤鉱主に大槻のことを報告したが、丁度そこに来ていた松村保さんが、それでは正木昊弁護士を紹介しようとのことで、松村、佐藤(勝子)、私の三人で弁護士会に正木弁護士を訪ね、はじめて同弁護士を知った。私が四倉繁作さんから聞いた前述のことをその時正木先生に話したか什うか判然しないが、正木先生が長倉村へ来た時にも話したし、その後も何回か話した。正木先生は何時でも私の話を直ぐその場で私の目の前でメモに取った。正木先生のメモ(押二二)に私が四倉さんから聞いた話として「二十日に経済部の刑事が出征するについて宴会をやったが、その宴会には大塚や大宮警察署員全部が出席し、四倉も出席した。大塚等はそれから河田屋で飲み直し、翌二十一日に二日酔して気分が悪く、大槻が自白しないので、やけで殴ったらしい」というようなことが書いてあるとのことであるが「やけで殴った」といったか什うか判然しないけれども、そのようなことを正木先生に話したことはある。その話を四倉さんから聞いたのは、一月二十二日の朝同家へ行った時と、その後に一度聞いた旨の各供述(記〔3〕一八五三丁乃至一八五五丁及び一八五七丁乃至一八五九丁)

一、差戻前の当審第六回公判調書(昭和二十三年四月十九日附)中証人氏家庄治郎の供述として前示(1)と同趣旨及び一月二十二日の朝四倉繁作方で同氏が「余りヤキを入れ過ぎたからだ」云々の話をした際、青木六助さんは既にその場にいなかったが、山岸幸作さんは側で聞いていた。それから木炭を積んで大宮の四倉事務所へ行き、そこでは高瀬という事務員が大槻のことを「弱ったことだね、余り酷いことをするから、こんなことになるんだ」と申し、四倉氏もそれに続いて前に自宅でいったような「ヤキ」の話を繰り返したと思う旨並びに山岸さんが私と一緒に四倉氏から「ヤキ」云々の話を聞きながら、私程はっきり述べていないとすれば、それは実家が四倉氏と同じ平市である関係から同人と悪い顔をしたくないためと、又四倉氏が長倉村の名望家であるため遠慮したものと思う旨の各記載(記〔2〕一一六五丁乃至一一六九丁及び一一七一丁、一一七二丁)

一、差戻前の当審証人山岸幸作に対する訊問調書中同人の供述として、一月二十二日の朝氏家が大槻が警察で脳溢血で倒れたから、死骸を取りに来いと通知があったといって来たので、直ぐ二人で野口村の四倉繁作方へ行きその話をしたが、同人はそのことについて焼を入れるとか入れたとかいうようなことを話しているのを聞いた。又同人の会社の事務所でも焼をどうこうという話をしていた旨の記載(記〔2〕七六三丁、七六六丁、七六七丁)

一、差戻後の当審証人寺門弥十郎に対する尋問調書中同人の供述として、昭和十九年一月頃加最炭抗の現場監督をしていた大槻という者が大宮警察署の留置場で死亡したという事件は、当時新聞に出ていたので、同年二月頃四倉繁作--その頃私が同人の河川工事の下請の世話を焼いていた--が私方へ旧正月の年始に来た時、私の方から「四倉さんは長倉に近いから知っているだろうが、新聞に出ているようなことは本当なんだろうか」と聞くと、四倉は「俺もよく知らないが、何時だったか俺が警察の大塚さんと一緒に飲んだとき大塚さんが、彼奴は強情だからしめなくては駄目だ、というようなことをいっていた」という話をした旨の記載(記〔3〕一七六六丁、一七六七丁)

一、差戻後の当審証人綿引清寛に対する尋問調書中同人の供述として、昭和二十一年七月頃、当時の大場村国民学校の新校舎で村常会が開かれたことがあるが、その常会が終ってから旧校舎でその頃居村の問題になったいた俗称おみこし事件--同年春頃村農業会の常務理事安藤貞が米の不正割当をやったとのことに憤激した村の青年達が神興を担いで同人宅に暴れ込んだという事件--の対策について正木昊弁護士も来ていろいろ話し合っていたが、その席上四倉幸義が「あれは大塚という巡査がはたいたに違いないよ、うちの弟の話では、はたいた当夜、外山で大塚巡査と一緒に飲んで帰りあしに、今から行ってはたかなくちゃなんね、と大塚巡査がいったので、弟は静かにしてやって呉れ、友達だから余りゴーセ(乱暴の意)なことをやらないで呉れ、といったそうだ」というような話をした。すると正木弁護士は「弟とは誰かね」と聞いたので、四倉が「四倉繁作だ」といい、更に正木弁護士が「奴はそういっておらんがね」といったところ、四倉はそのまま黙ってしまった旨の記載(記〔4〕一七二五丁乃至一七二七丁)

一、差戻後の当審証人石川正美に対する尋問調書中同人の供述として、昭和二十一年六、七月頃当時、居村大場村で俗称おみこし事件といわれた事件があり、私もそれに関係したということで罰金の略式裁判があった。私としては別に暴行をしたこともないし、罰金に処せられては大変だと思い、丁度瓜連町へ弁護士の正木先生が来ていたので、先生を訪ねて行って事件の話をした。それから先生に私の村へ来て貰い、大場村国民学校の旧校舎で時局問題や人生問題について、村の常会長と青年達に話をして貰った。話が長倉事件(大槻徹の大宮署留置場における死亡事件)に及んだ折、四倉幸義がお読聞けのように「弟の四倉繁作が大宮警察署の大塚巡査部長と一緒に酒を飲んだ席で、長倉村から行った人のことを頼んだところ、大塚部長は彼奴は強情だから、これから帰って、ひっぱたいてやる、という意味のことをいったと繁作から聞いた」と申した旨の記載(記〔4〕一七三五丁乃至一七三七丁)

一、差戻後の当審証人寺門日出男に対する尋問調書中同人の前同趣旨の供述記載(記〔4〕一七四四丁、一七四五丁)

一、差戻後の当審証人正木昊の当公廷における私が判示長倉村の加最炭坑に勤めていた氏家庄治郎と最初に会ったのは、当時の手帳によると昭和十九年一月二十四日で、会った場所は第二東京弁護士会館であり、更に同月二十六日長倉村の今出旅館で同人や山岸幸作外数名に会い、それらの人達から交々、本件の話を聞いた。細かいことは判然した記憶はないが、要するに大塚が大槻を殴って殺したということの結論を得るような話であった。その時は氏家、山岸等数名が交々話すのを私が制しながらメモを取ったが、そのメモは水戸地方裁判所の予審判事に提出した旨及び昭和二十一年七月頃私が茨城県那珂郡瓜連町に行った際、同郡大場村の石川正美という青年が、同町の友人を通じ初めて私の処へやって来て、俗称おみこし事件の話をし、私に民主々義の講演旁々、大場村に来てくれとのことであった。それで控によると七月二十二日らしいが、同村国民学校で最初に村の常会長連とおみこし事件についての懇談会をやり、それが済んでから別の校舎で村の人達四、五十人位に民主々義に関する話をした。その話の中で正義を守らなければならないというような話から、実例として本件の話をすると、突如、聴衆の一人が大声で、「それは大塚がやったのに間違ない」といった。それは本件が無罪になったという話をした時であったが、私は全然予期しないことだったので、吃驚して一寸講演を止め、その人に「貴方は什うして知っているのか」と聞くと、その人は四倉繁作の兄で繁作から聞いたのだということが判った。それで私は「四倉繁作はそんなことは、いっていないよ」といったが、その話はそのままにして講演を続けた。その顛末については、その後に書面で加藤検事に提出したが、本日その写(押二三)を持参したので提出する。なお、右の発言者が四倉幸義であることは、講演が終ってからの帰途、私を送って呉れた青年等から聞いて知った旨の各供述(記〔4〕一八三七丁、一八三八丁及び一八四一丁乃至一八四六丁)

等を併せ考えると、右推測の由って来たる所以を首肯するに充分である。

そこで叙上列挙の全証拠を仔細に照合考察するときは、被告人が大槻に対する判示取調に際って、同人に暴行を加えたものであると認めることができる。

ただ、前記清水医師の鑑定書によると「最も死亡に大きく関係したと考えられる後頭蓋腔内に出血をきたした衝撃後は、長くとも数時間は持たなかったと考えられる」と記載せられ(記〔3〕一五八四丁裏)、右の如く後頭蓋腔内の出血が大槻の死亡に最も大きく原因したものであって、そこに出血を見るに至ってからは恐らく数時間で死亡したであろうとする点は、大槻、桂、中沢各医師もこれと同意見(大槻=記〔3〕一六三一丁」桂=記〔4〕一七一六丁以下」中沢=記〔4〕一七〇八丁)であるから、若しこの後頭蓋腔内の出血が、独立の外力によって惹起されたものとすれば、大槻の受傷を被告人の判示取調中における暴行に因るものとする前認定と撞著するやの疑を生ずるので、一応この点を究明する。

本件における後頭蓋腔内の出血が独立の外力によるものとするのは、清水医師のみであって、他の鑑定人等はそれを否定するか(桂=記〔4〕一七一七丁)、又は単にその可能性を認めているに過ぎない(古畑=記〔4〕一六八四丁)。しかし清水医師も、茲に問題の外力は、後頭蓋腔内が健康である場合には、拳闘選手がグローブをはめないで殴る等の相当強い打撃であることを要するが(記〔3〕一六四〇丁)、既に大脳からの出血が流入して、病的状態となっている場合には、枕から頭を外すとか、もがく程度の僅微な衝撃(impulse)で充分であると、当公廷において説明し(記〔4〕一八九〇丁乃至一八九三丁)、更に本件においては、古畑、中館各頭部鑑定書記載のような後頭蓋腔内における血液の貯溜によって死亡しており、若し後頭蓋腔内の出血が、大脳の部分の出血よりも先であったとすれば、大脳の部分に右解剖所見のような出血を来したことの原因が不明となるので、大脳の部分の出血の方が、後頭蓋腔内の出血よりも先であろうと思われる。かく見れば、大脳の部分に出血したものが、後頭蓋腔内へ流入して同腔内が出血し易い状態、即ち病的な状態となっているので、同腔内の出血の原因となった衝撃というのは、前記の如く枕を外すとか、もがいたために加わったような極めて僅かの外力でもよいことになる旨解説し(記〔4〕一八九三丁)、後頭蓋腔内に出血を来した衝撃とは、必らずしも殴打等の暴行を意味しないことを明らかにしている。して見れば、大槻が死亡前数時間の間に枕を外すとか、もがく等の所作に出なかったとは、誰人もこれを否定し得ないから後頭蓋腔内の出血が独立の衝撃によるものとする清水医師の鑑定意見に従うも、大槻の受傷を被告人の判示取調中における暴行に因るものとする前認定と、聊かも撞著するところはないのである。

第六、次に、被告人が大槻に加えた暴行は手拳又はその他の鈍器による数回の頭部打撲であること及び被告人の右殴打によって、大槻に対し判示脳膜出血を生ぜしめた点は

一、古畑頭部鑑定書(押二〇)中本屍頭部に作用した凶器は、余り硬くない鈍体である旨の記載(同鑑定書第四章三項)

一、強制処分における証人古畑種基に対する予審判事の昭和十九年四月四日附訊問調書写(押一二)中同人の供述として、大槻の頭部の外面に傷がない所見によると、同部に加えられた外力は本屍の生前における余り硬くない鈍体の直接の衝撃、例えば拳で殴るとか、突き跳ばされて或る物体に衝突することに因る衝撃と判断する。なお、蒲団のような軟い物体を距てて加えられた硬い鈍体、例えば棒のような物の衝撃と見ることもできる旨の記載(同訊問調書写三問答)

一、予審の証人古畑種基に対する昭和十九年五月十六日附訊問調書写(押一三、一六)中同人の供述として、本屍頭部には骨折を生じておらず、軟部組織に出血があることや、皮膚に出血を生じておらぬというような点から見て、本件の凶器が鈍器であることは想像される。更に同じ鈍器であっても、皮下に出血を伴う場合は堅い鈍器であるが、本件においては左様な皮下出血がないから、軟い鈍器であったと思う。その軟い鈍器としては、拳等が適例でないかと思う。殊に腕力の強い者が拳を振った場合は、随分強い力を相手に与えるから、本件のような蜘蛛膜下出血を充分に惹起することができる旨及び大槻の頭皮内面に二個の軟部組織間の出血があるので、この部分に鈍体が作用したことは極めて明らかである旨の各記載(同訊問調書写三八、三九及び一二各問答)

一、差戻後の原審証人古畑種基に対する昭和二十一年八月十三日附訊問調書中同人の供述として、本件の凶器である鈍体としては、棒では骨折が起ると思われるから、それ以外の鞭或は拳骨のような物が考えられる旨の記載(記[1]四〇二丁)

一、差戻前の当審第五回公判調書(昭和二十三年三月十九日附)中証人古畑種基の供述として、本件の凶器としては鈍体であるという推定はできる。皮下出血も軽いものであるから拳とは断定できないが、拳と同様な作用によって起り得ると考える旨の記載(記〔2〕一一四七丁)

一、差戻後の当審証人古畑種基の昭和二十八年五月二十日の第三回公判廷における大槻徹の判示脳膜出血は、同人が頭部に外力を受けた結果生じたもので、凶器は余り硬くない鈍体、例えば手拳のようなものであることは、既にこれまで述べたとおり間違いない旨の供述(記〔3〕一四二八丁)及び昭和二十九年一月二十八日の第十一回公判廷における本件被害者に対する打撃は、左右両側頭部、後頭部等から加えられたものと考えられる旨の供述(記〔4〕一六八六丁)

一、中館頭部鑑定書(押一八)中本屍の直接死因たる脳膜出血を惹起せしめたる頭部打撲の成傷器は、鈍器なることは明らかなるも、頭部に鈍器の形態を印象せる創傷の存在を認めざるを以て、如何なる種類の鈍器なるやは不明なる旨の記載(同鑑定書、説明三項)

一、予審の証人中館久平に対する昭和十九年五月十五日附訊問調書写(押一三、一六)中同人の供述として、大槻の頭部には割創もなく、骨にも変化がないので、鈍器に因る打撲であることは推定できるが、如何なる鈍器であるかは判らない。しかし解剖所見のような程度の甚しい出血を来しておるところを見ると、鈍器も相当力強く打撃を加えたのではないかと思う。手拳でもあのような出血を起さぬとは限らぬが、棒のような鈍器で打ったのではないかと推察する。算盤のようなものでも、あのような出血をすることが考えられる。算盤の角の処で打てば頭部に裂創が出来るが、平らな部分で打ったならば、裂創が出来ずに頭皮軟部組織間の出血が生ずるかも知れない旨及び出血部位が汎発的な点から見て、外力は何回か加えられたものと見るのが妥当であると思う旨の各記載(同訊問調書写三四乃至三六問答及び四二問答)

一、差戻後の原審証人中館久平に対する昭和二十一年八月十三日附訊問調書中同人の供述として、本件の場合、如何なる凶器で什の程度叩いたものか判らない。軟部組織の出血、或は骨部の損傷等はなくとも、内部的に損傷する場合が多い。拳固で叩いたような場合にも起り得るし、算盤でも不可能ではないと思う旨及び本屍頭部に加えられた外力は、右斜或は垂直、左斜等からのものが想像される旨の各記載(記〔1〕三八二丁及び三八四丁)

一、差戻前の当審第五回公判調書中証人中館久平の供述として、本件の凶器は解剖所見上、攻撃面が平滑なものという推定を得た旨の記載(記〔2〕一一三九丁)

一、差戻後の当審証人中館久平の当公廷における大槻徹の判示脳膜出血は、頭部に外力を受けた結果起ったもので、凶器は鈍器であることが明らかだった旨の供述(記〔2〕一四四五丁)

一、鑑定人中沢房吉作成名義の鑑定書中本件における凶器の種類は、角のない、且つ、そう硬くない鈍的のものが考えられる。打撃の回数は、一回とは思われない。種々の方向から数回打たれたものと考える旨の記載(記〔1〕五二〇丁)

一、差戻後の当審証人中沢房吉に対する尋問調書中同人の供述として、大槻の頭部に作用した外力は常識的に考えれば、相当強い手拳で殴る位と考えられる旨の記載(記〔3〕一七〇七丁)

一、鑑定人桂重次作成名義の鑑定書中大槻の判示脳膜出血が、他人のため加えられた暴行に因るとすれば、凶器は鈍い物体が最も考えられる。方向は不明なるも、側頭部皮下出血より左右側頭部を相ついで打撃した如き暴行が考えられる旨の記載(記〔1〕五一三丁)

一、鑑定人大槻菊男作成名義の鑑定書中本件においては頭皮に存する損傷が二ケ所であることから、二回或はそれ以上の打撲が推定される旨の記載(記〔3〕一六一〇丁)

一、鑑定人清水健太郎作成名義の鑑定書中大槻徹の頭部に加えられた外力即ち打撲は、恐らく一回ではなくて数回且つ数方向と考えなくてはならない旨の記載(記〔3〕一五八三丁)

を総合してこれを認める。即ち右列挙の証拠によって大槻の頭部に加えられた外力は、余り硬くない鈍器による数方向からの数回の打撲であると認められるが、その鈍器の種類としては手拳、棒又は鞭、算盤(平面部)等を想定し得べく、就中手拳を以てその適例とすべきも、これのみとは断定し難いので、判示のように「手拳又はその他の鈍器」と認定するの外はない。

よって以上第一乃至第六に掲げた各般の証拠を総括統合して考按すれば、判示犯罪事実は総てその証明充分である。

〔弁護人の主張に対する判断〕

弁護人の主張するところは、要するに本件公訴事実を認むるに足る証拠が存在しないとの趣旨に帰するので、旧刑事訴訟法第三百六十条第二項所定の判断事項に属するものではないが、弁護人の右主張内容は、その立論において叙上の証拠説明と対遮的関係に立っているので、以下これについて判断を与え、以て前段認定の妥当性を更に、この面より論証することとする。(以下大別する項目の表題は、便宜、弁護人のそれに従う。)

第一、死因論

〔一〕病死論について

この点に関し弁護人は、差戻後の当審証人中沢房吉、桂重次に対する各尋問調書中の所説を主たる論拠としているので、先ず右各所説について検討し、次いで青柳医師の病死説に言及する。

(1) 中沢医師の所見

中沢医師が差戻後の当審における証人尋問に際し、弁護人摘録のような鑑定証言をしていることは所論のとおりであるが、該尋問に際しての全供述を仔細に検討すると、同医師は本件鑑定に当り、その資料の一たる古畑、中館各頭部鑑定書添附の大槻徹の写真の模様と、弁護人のいわゆる仮定事実--大槻の死亡数分前まで自覚的、他覚的症状が認められなかったという--から推して、大槻にはアテローム変性があったものと考えた結果、所論のように「本件においては、外力は一つの動機にはなり得るが、それが絶対的なものとの確かな根拠はない」(記〔4〕一七〇五丁)としたものと認められる。このことは中沢医師が右証言において、曩に自ら提出の「補充訊問事項に対する証言」と題する書面に「死亡前二十時間以上前に外力を受け、それにより血管は出血一歩前の損傷を受けていたが、幸にも二十数時間の間は、何等出血を来たさなかった。ところが睡眠中に第二の僅微な原因、例えば大きなくさめ、咳嗽などで、一寸血圧の上昇したとき等に損傷血管の破綻を来たし、それが急速に大出血となり、速かなる死を来たす場合、斯様なことは必ずしも稀有ではない」と記載してあるが、かかる場合はアテローム変性であって、多少高血圧症の傾向ある者、又は高血圧者に起る可能性多く、アテローム変性のない場合には、先ず考えられない、と補足説明している(記〔4〕一七〇四丁、一七〇五丁)に徴しても明らかである。よって、本屍にアテローム変性が認められたか否かにつき審究するに、鑑定人青柳兼之介作成名義の昭和十九年二月十日附鑑定書写(古畑頭部鑑定書末尾添附及び押一二に編綴)には、本屍の大動脈起始部内面にアテローム変性ある旨の記載があるが、これに対しては、古畑医師が同人作成名義の本屍胴体解剖による鑑定書写(押一九)記載の如く「青柳鑑定人は大槻徹の解剖をしたことになっておるのであるが(中略)、心臓においては、最も重要なる冠状動脈の検査がなされておらず、且つ心臓の大きさは本屍の手拳の一倍半大で、大動脈起始部の内膜にアテローム変性があると記載せられているが、余の見たところでは、本屍心臓には少しも肥大がなく、且つ血管は弾力性柔軟で硬変、肥厚等の事実がなかった」と指摘する外、右青柳鑑定の極めて不備不完全であることについての深刻な批判をしており、又、中館医師も同人作成名義の本屍胴体解剖による鑑定書写(押一七)にあるとおり「大動脈には動脈瘤の如きを存せず。又、大動脈の内膜は一般に平滑にして肥厚斑なく、脳溢血において屡々、偶発性蜘蛛膜下腔出血において比較的屡々見らるるところの動脈硬化、又は動脈のアテローム変性等の病的変化を認めず」との解剖所見を明らかにし、而もこれらに照応して、青柳医師自ら検事に対し、本屍の解剖においては大動脈の切開をしなかった旨供述して、本屍剖検の不充分さを認めている事実(青柳兼之介に対する検事の昭和十九年三月二十日附第三回聴取書写=押一二)を総合すると、本屍にはアテローム変性が認められなかったものと解するのが至当である。成程、古畑、中館両医師の本屍胴体解剖は、昭和十九年二月二十三日であって、大槻徹の死亡後一ケ月余を経過していることは、所論のとおりであるが、古畑医師に対する昭和十九年五月十六日附予審訊問調書写(押一三、一六)中「高血圧を推定するに足るべき病的変化の有無については、特に慎重を期して検査したが、遂にこれを認めることができなかった。本屍の解剖当時この点の鑑定に支障を来たす程度の死後の変化は現われていなかった」旨の供述記載及び中館医師に対する差戻後の原審証人訊問調書中前同趣旨の供述記載によると、古畑、中館両医師の本屍胴体の解剖当時、所論のように高度の腐敗現象が起っていて、アテローム変性の有無の鑑定に支障があったとは認められず、寧ろこの点の鑑定に支障はなかったものと解し得るのである。して見れば、本屍には古畑、中館両医師の解屍所見のとおり、アテローム変性が認められなかったものと断ずるのが相当であるから、その存在を想定しての所論中沢医師の見解は、これを以て病死説の論拠とすることはできないものといわなければならない。この点は、中沢医師が曩に「証拠」の部第三部に摘記した如く、前示「補充訊問事項に対する証言」と題する書面中に「本例が外傷に基因しておることは古畑、中館両鑑定人の鑑定書並びに資料から疑のないところと思われる」(記〔2〕一〇九九丁)と記述していることに鑑みるも、これを疑うべき余地がない。

(2) 桂医師の所見

桂医師が差戻後の当審における証人尋問において、弁護人摘録のような鑑定証言をしていることは、所論のとおりであるけれども、同医師において大槻徹に多少は血管の病変があったのではないかと推量する根拠が「私は鑑定書添附の写真も見ましたが、あの写真では大槻という人は、酒も相当飲みそうな顔ですから」(記〔4〕一七二一丁)という如き、極めて常識的な判断を出でないものである以上、これを以て古畑、中館両医師の本屍胴体の解剖所見によって明らかにされた「血管の病変等の不存在」を否定せんとするのは、全く論外とせざるを得ない。従って、桂医師の所論見解は、弁護人の病死論を裏付けるに足らないばかりでなく、同医師も亦、曩に自ら作成提出に係る鑑定書並びに「証言」と題する書面において、古畑、中館両鑑定書記載の解剖所見によると、本屍の脳膜出血が外傷性のものであることは明らかであるとしている点(証拠の部第三摘記の該当部分参照)、及び桂医師に対する差戻後の当審証人尋問調書(記〔4〕一七一三丁以下)に現われた全供述を彼此照合するときは、同医師の所論見解は、決して病死説を容認するものではなく、寧ろ外傷死を前提としつつ、被害者の受傷時と死亡時との時間的間隔の判定基準に関連して、偶々、所論のような見解を披瀝したに過ぎないことを容易に領解し得るのである。

(3) 青柳医師の所見

青柳医師の病死説、即ち本屍の死因を病気による蜘蛛膜下出血とする鑑定意見の誤謬については、既に前掲(1)中沢医師の所見の項において、本屍のアテローム変性の有無に関し説述したところにより、自ら明らかであるから、茲に繰り返す要を見ない。ただ、桂、中沢両医師は、古畑、中館、両医師の各鑑定書並びに各鑑定証言の外、青柳医師の右病死説を明示する鑑定書並びに鑑定証言(記〔1〕三二四丁以下)をも鑑定の資料としながら、なお且つ、本件が外傷性蜘蛛膜下出血であることは間違いない旨断定している事実に稽えれば、桂、中沢両医師も、青柳医師の右鑑定意見は、古畑、中館両医師の前記解剖所見と対比して、明らかに誤謬を冒していることを容認したものと推知し得る点を附言するに止める。

〔二〕古畑頭部鑑定書における「両耳上の軟部組織間の出血」の真否に関する所論について

古畑頭部鑑定書(押二〇)によると、(1)左側外耳の後上方四横指の処に約鶏卵大軟部組織間出血一個、(2)右眉毛外端の後上方六糎、右前額髪際に近き部位に約鶏卵大の軟部組織間出血一個を存する旨及びこの本屍の頭皮内面に外力の作用した痕跡と見做すべき軟部組織間出血二個が証明せられたことから考うるに、本屍脳膜の異常は外力の作用を蒙り、その結果として惹起せられたものである旨各記載せられ、右二個の頭皮内面の軟部組織間出血を以て、本屍脳膜出血の外傷性を判定する資料としていること並びに古畑医師において右二ケ所の軟部組織間出血部位を解剖当時切除したが、その切除部分がその後廃棄せられて現存しないことは弁護人指摘のとおりである。而して中館頭部鑑定書(押一八)によれば、(1)右耳翼上端の上前方約二横指のところ及び(2)左耳翼上端の上後方約三横指のところに、各約拇指頭面大の頭皮軟部組織が、いずれも正鋭に切除せられているため、この部における出血等の損傷異常の有無は、これを知るに由なく、これらの切除部分に接する肉眼的に出血の存在を認めない頭皮軟部組織及び左右両側頭筋肉の細片を採取し、組織標本を作り、顕微鏡検査をしたが、出血等の存在を認めなかった旨の記載があるので、右二個の軟部組織間出血の真否について、一応疑問の生ずる余地がないとはいえない。しかしながら、古畑医師に対する昭和十九年五月十六日附予審の証人訊問調書写(押一三、一六)及び差戻後の原審証人訊問調書(記〔1〕三九五丁以下)によると、同医師は本屍頭部を同年二月八日解剖した後、念のため組織標本を作って顕微鏡検査を行うべく、前記両出血個所を全部切り取ったが、該出血は肉眼でも確認し得られたものであり、且つ割を入れて見たところ、生前に生じたものであることが余りにも明白であったので、多忙に取り紛れ、強いて顕微鏡検査まで行う必要はないと思い、これを省略し、その後不要に帰したので、間もなく廃棄した旨の供述記載があり、これによって右軟部組織間出血部位を切除した理由が、古畑医師において全く念のため顕微鏡検査を行わんとしたに過ぎないものであり、従ってその廃棄処分も、格別の事情によるものでないことを窺い得るのである。尤もこの切除部分の処置については、古畑医師の取扱に遺憾の点なしとしないが、さればといって、同医師の右解剖所見を、これがため、根本より否定し去るのも早計であるといわなければならない。ところで本屍の頭部は、古畑医師において解剖した後、これをホルマリン漬にしたのであって(古畑医師に対する差戻後の原審証人訊問調書中のその旨の供述記載=記〔1〕三九六丁、四〇五丁)、中館医師はそのホルマリン漬の頭部を解剖鑑定したものであるが(中館頭部鑑定書中の解剖検査記録一項冒頭記載)、かように頭皮軟部組織の一部を切除して頭部をホルマリン漬にした場合には、該切除部位が相当収縮することは、古畑、中館、清水各医師の一致した意見である(古畑=記〔1〕三九六丁乃至三九七丁」中館=記〔1〕三八三丁」清水=記〔4〕一八九七丁)。尤も、鶏卵大とか拇指頭面大とかいうのは、差戻後の当審公廷において清水医師の述べるとおり、正確な用語とはいい難いが--この点は、古畑医師も本件の場合は、特に範囲を計ったわけではなく、単なる形容語を用いたに過ぎないと述べている(同医師に対する前掲予審証人訊問調書写=押一三、一六=一五問答)--頭部をホルマリン漬にした場合、頭皮軟部組織間の鶏卵大の切除個所が、一週間位で拇指頭面大に収縮することのあり得ることは、差戻後の当審公廷における清水医師の供述(記〔4〕一八九八丁)によるも、明らかなところである。して見れば、中館医師が問題の切除部分に接する肉眼的に出血の存在を認めない頭皮軟部組織を採取して顕微鏡検査をしたが、出血等の存在を認めなかったとて、敢て異とするに足りないことを首肯し得るのである。尤も、この点に関し弁護人は、古畑医師が右鶏卵大の軟部組織間の出血部位から拇指頭面大の部分を限り切除したものの如く主張するも、これは全く根拠なき独断に過ぎない。従って弁護人が、差戻後の当審証人桂重次に対し「鶏卵大の広さの頭皮軟部組織間の出血部位から拇指頭大を切り取っても、その周辺に出血部分は残存しているわけか」と尋問し、これに対し同証人が「然り」と答えた(記〔4〕一七一八丁)からとて、かくの如きは敢て専門医師の意見を俟つまでもない自明の理であって、固より本問題には、何等の参考資料ともなり得ない。即ち本件においては、前叙の如く古畑医師が、鶏卵大の軟部組織間の出血部位を二ケ所とも、全部切除したものと認められる以上(記〔1〕四〇五丁)、その周辺に出血部分の残存すべき筈はない。

以上によって、本屍頭皮軟部組織間の出血部位の切除範囲に関し、古畑、中館両医師の解剖所見上に相異がある如く見られたのは、その切除範囲を示す形容語の不正確さに加えて、本屍の頭部が古畑医師の解剖後、ホルマリン漬にされた関係に由来するものであることを認めるに充分である。従って本屍頭皮内面に、古畑頭部鑑定書記載のような二個の軟部組織間出血の存したことは、最早、疑のないところといわなければならない。しかのみならず、中館、清水両医師は右二個の軟部組織間出血を考慮の外に置いても、その他の解剖所見よりして、外傷性蜘蛛膜下出血及び硬脳膜下出血が、本屍の死因であることは明らかであるとしている点を、茲に指摘して置かなければならない。即ち、中館医師は同医師作成に係る頭部鑑定書(押一八)において「これら脳膜出血は、頭部に鈍力の作用することによりて(鈍器打撲によりて)惹起せられたるものなることは、これら出血の部位、程度等より極めて容易に推定し得らる。而してこの際、頭蓋骨に骨折なくも、頭皮軟部組織において出血等の損傷異常の存在ぜざる場合においても、外傷性のものなることは容易に推定し得らる」(同鑑定書、説明二項末段)と断じ、なお、同医師に対する検事の昭和十九年三月十六日附聴取書写(押一二において「本屍の死因を外傷性のものと鑑定したのは、第一に一見した時の感であって、見た感じだけで、これは問題ないと思ったわけであるが、その二、三の理論的な根拠を挙げれば、(1)蜘蛛膜下出血には外傷性のものと、特発性即ち偶発性のものとの二種類あるが、前者は後者に比較して多いこと、而も後者の好発部位は脳底部で、穹窿部に起るが如きことは極めて稀であること、(2)本件には高度の硬脳膜外及び硬脳膜下の出血を伴っていること、(3)脳の血管に硬化アテローム変性等の全然ないこと等である。特発性の場合には、かような硬脳膜の出血を併発することはなく、その誘因は梅毒、アルコール中毒、鉛中毒、萎縮腎等の病変が必らず見られる筈であるが、本件にはそれがなかったのである。硬脳膜の出血も、時に病的に来ることがあり、脳膜炎、流行性脳炎等の場合がその例であるが、この場合には硬脳膜に化濃等の病変が発見されて、所見が全然違うのである。古畑氏の発見したという頭皮内面の生前傷が、仮になかったとしても、本件は外傷性の蜘蛛膜下出血及び硬脳膜出血によって死亡したものであることを明らかに断言できる」(同聴取書写七項)と述べている。又、清水医師も差戻後の当審公廷において「古畑頭部鑑定書(押二〇)にある本屍頭皮軟部組織間の出血がなくとも、脳を見れば外力が加わったか什うかは判るから、その出血は必らずしも必要ではない。ただ、その出血があれば、なおさら、外力の加わったことが明らかである、ということになる」(記〔3〕一八九五丁)と証言している。茲において、古畑頭部鑑定書における所論両耳上の軟部組織間出血の有無は、被害者大槻徹の死因たる判示脳膜出血が、外傷性のものなりや否やを判定するにつき、必らずしも不可欠の資料でないことを知るべきである。

これを要するに、弁護人が古畑医師の本屍両耳上の軟部組織間切除部分に対する未検査廃棄の措置を難ずるの余り、同医師の頭部解剖所見による鑑定意見を全面的に非議するのは、全く当らないものというの外はない。

〔三〕  自為的乃至偶発的外傷論について

この点については、「証拠」の部第四に掲げた諸証拠により、いわゆる「人為的外傷論」の妥当なることが明らかであるから、敢て弁護人の所論について、判断を加えるまでもないと思われるが、念のため茲に二、三の点を附言する。弁護人も、本屍両耳上に古畑頭部鑑定書記載の如き軟部組織間の出血が、真に存在したとするならば、本件を人為的外傷と認めるのは、妥当な結論といわなければならない、としておるのであるが、該出血の存したことは、前項において詳述したところにより、これを確認し得るのであるから、弁護人の主張は、自ら理由なきに帰著する。而も、「証拠」の部第四に挙示した証拠を総合すれば、判示外傷性蜘蛛膜下腔並びに硬脳膜下腔出血が、人為によるものと認むべきは、経験則上の推理判断として当然である。従って、この経験則に立脚する推理上の帰結を覆さんとするには、われわれの日常経験上一般に予想し得ない特段の事由を主張し、且つ立証しなければならない。先ず、(1)自為的外傷論について見ると、これを肯定せんがためには、当時、大槻徹の置かれた境遇、環境、立場等を考察し、同人をして自為的外傷を惹起せしむるの巳むなき事情があったか否かを究明しなければならない。成程、当時大槻は、大宮警察署に拘禁中の身であり、かかる被拘禁者が、往々にして自殺の挙に出る実例の存することは、所論のとおりであるけれども、大槻に関する限り、その被疑事実は、さして罪質の重いものではなく、一現場監督たる同人の僅か一両日間の拘禁のために、加最炭坑の事業運営に重大なる支障を来すべき事情も窺われず、又、被疑事実の自供によって、その関係者、大槻の家族等に或る程度の迷惑を及ぼすことは予想されるとしても、特に死を以て謝意を表すべき心情を忖度し得ない等の諸点に鑑みれば、大槻が卒然、自殺を図ったものとは、到底思考し得ないところであるのみならず、精神病者でない大槻が、留置場の如き狭い場所において、自殺の目的を以て、その頭部に外力を加えても、本件のような脳膜出血を生ぜしめ得ないことは、「証拠」の部第四に援用した中館、中沢両医師の鑑定意見によって明らかである。次に

(2)偶発的外傷論について按ずるに、本件受傷は昭和一九年一月二十一日午前五時頃以後と認定すべきこと、前段説示及後述のとおりであるから、その一両日前において、大槻が酩酊して道路上に倒れ、頭部を打ったかも知れぬとの想定は、前認定に係る受傷時以前のことに属し、茲に判断の限りでないが、仮に受傷時を一両日前に溯らせて見ても、その可能性の稀薄であることは、前掲中館医師の鑑定意見(昭和十九年三月十六日附検事聴取書写=押一二--一〇項)によって明らかであるばかりでなく、一件記録に徴しても所論想定事実を窺知し得べき何等の資料も発見し得ない。

更に、大槻が死亡前夜の一月二十一日の晩、蒲団を房外から房内に運び込む際、出入口の框に頭部を打ちつけたとの所論事実の有無について検討する。先ず、大槻が小沢捨吉巡査のいう如く、同夜蒲団を房外から房内に運び込んだか否かが問題であって、差戻後の当審証人西山五郎、同仲川六衛門の当公廷における各供述(西山=記〔3〕一五二〇丁」仲川=記〔3〕一五四〇丁)に徴すると、同巡査の証言のみを以ては、遽かに積極認定を下し難いばかりでなく、同巡査は大槻の右頭部打撲の一件を、その当時、寺田署長に報告したのではなく、その後数ケ月を閲して同署長から、かかる事もなきやと尋ねられ、始めてその話をしたという経緯(差戻前の原審証人寺田福三郎のその旨の供述=押一四)と、蒲団を房外から運び込む際、出入口の框で頭部を打ちつけたとういような衝撃によっては、本件の如き汎発的な高度の脳膜出血を生じ得ないとする古畑、中館、中沢、桂の各鑑定意見(「証拠」の部第四に引用)とを総合すれば、右監房出入口における大槻の頭部打撲の有無については、多くの疑問を存し、従って該事実の存在を前提とする所論は、到底容認することができない。又大槻が炭坑の杭木に頭部を打ちつけたかも知れぬとの所論想定事実は、判示受傷時の関係よりするも、判示脳膜出血の部位、程度から見ても、これを本件との関連において、考慮に加えることはできない。

なお、偶発性蜘蛛出血と外傷性脳膜出血との競合論に至っては、既に本件につき偶発性脳膜出血を認むべき余地のないこと前説示のとおりである以上、右競合論も自ら是認することがきない。

第二、受傷時論

本件被害者が判示日時死亡したことについては異論がないので、被害者の死亡時と受傷時との時間的間隔を判定することが、加害者の範囲を特定する前提であり、従って、この点が叙上の死因論に次いで、本件断罪の根幹をなすものであることは、所論のとおりである。よって、その判定資料にする弁護人の主張につき逐次判断する。

〔一〕  出血の状況と出血の始期に関する所論について

古畑、中館、大槻各医師の鑑定意見によると、判示脳膜出血における出血の状況と出血の始期につき、或る程度の推定は可能であるにしても、その明確なる判定を期し難いことは、所論のとおりである。しかしながら、この問題は、次項の「受傷後における身体的症状」の先駆をなすものであるところ、この身体的症状も、被害者の受傷時と死亡時との時間的間隔を判定する上に、さしたる重要性を持たないことは、次項に関し後述するところによって明らかであるから、本項についての判断は、右に包摂せしめて、茲に省略する。

〔二〕  被害者の受傷後における身体的症状に関する所論について

一件記録を通じ、大槻の受傷後における自覚的、他覚的症状を検討しても、所論仮定事実に示された如く、被害者の死亡数分前まで格別の異常を認め得なかったかに見られる。しかし、これを以って直ちに、臨床医学的見地からも異常なかったものと断ずるのは、聊か早計であるといわざるを得ない。即ち、この点に関し中沢医師は本件の場合に外力作用後、多少の頭痛、眩暈はあった筈で、若干の苦痛はあったと思われるが、音をあげることの嫌な性格の者では、特に訴えないこともあり得る(記〔1〕五一九丁、同〔4〕一七〇六丁)としており、殊に被害者大槻徹が当時、留置場に拘禁中の被疑者という特殊の環境にあったことに想到すれば、在宅等の場合に比し、苦痛の表白を可及的に抑制したであろうことを察するに難くない。現に清水医師は、所論仮定事実(記〔3〕一六二一丁以下)の(6)に被害者から看守巡査に対し「蒲団は何時入れて貰えるか」と聞いたとあるが、その時本人に確実に不快な気持がなかったとは、いい切れず、少なくとも不快な気持があったと見るのが常識である(記〔3〕一六四三丁)とし、又、右仮定事実の(7)には「安眠状態であった」とあるも、それが果して普通の睡眠か病的の睡眠かは判らぬ。従って、その間脳圧迫が進行したかも知れず、恐らく病的な昏睡状態であったであろう。突然鼾が高くなって、死亡するというようなことはないから、それまでに昏睡状態があったものと類推するのが常識である(記〔3〕一六四三丁)と証言している。更に、受傷者との接触者が、専門医家でない一般人である場合には、時によって受傷後の症状を看過することもあり得るとする中沢、清水両医師の見解(中沢=記〔2〕一〇九六丁」清水=記〔4〕一八九四丁)が、右の消息を裏付けるものである。以上によって、本項の問題を眺めると、大槻徹の受傷後における身体的状態が、たとえ所論仮定事実のとおりであるとしても、これを以て同人に死亡数分前まで何等の自覚的、他覚的症状がなかったものとは速断し得ないこと、換言すれば、所論仮定事実は大槻の受傷後における身体的症状を示すものとしては、その正確性を保し難いことを知悉することができる。而も大槻、桂両医師は、更に一歩を進めて、古畑、中館各頭部鑑定書記載の解剖所見よりすると、所論仮定事実の如きことは考えられない(大槻=記〔3〕一六三四丁」桂=記〔4〕一七一九丁、一七二〇丁)としているのである。この辺に問題解決の鍵が秘められていることを看取しなければならない。

一方、清水、大槻、桂各医師の鑑定意見を総合すると、本件のような脳膜出血の場合に起り得べき症状は、脳震盪症状と脳圧迫症状とであって、後者のうちには、頭痛、眩暈、意識障碍、食慾不振、嘔吐等の自覚症状と、顔面紅潮、眼底鬱血、脈膊及び呼吸の不整、昏睡、鼾等の他覚症状とが考えられるが、右脳圧迫症状には頗る個人差が大きく、その全部が必発とは限らず、発現の時期、順序、状況等も各場合によって異なるので、結局、本件において具体的に右自覚、他覚のいずれの症状が、何時どの程度に現われたかは、解剖所見だけからは、これを判定し難いとする点において、右三医師の見解が一致し(清水=記〔3〕一六三七丁以下)大槻=記〔3〕一六二八丁以下」桂=記〔4〕一七一九丁」その他記録中の関係部分)、右と異なる鑑定意見を記録上発見し得ないのである。かくて本件においては、被害者の受傷後における身体的症状を基礎として、受傷時より死亡時までの時間的間隔を判定することは、殆ど無意味に帰し、従って右身体的症状を穿鑿することは、徒爾に終らざるを得ない。現に差戻後の当審における審理の結果が能くこのことを実証している。

然らば、所論仮定事実を大槻徹の受傷後における身体的症状の実態であると前提し、これを受傷時と死亡時との時間的間隔を判定する重要資料と断ずる所論は、専門医家の鑑定意見を無視する独自の見解といわざるを得ない。况んや、清水医師が、たとえ、所論仮定事実を判断の資料に加えても、大槻の受傷時と死亡時との時間的間隔に関する自己の鑑定意見に変りはない(記〔2〕一六四三丁)と、証言しているにおいておや。

〔三〕  本屍頭部の解剖(古畑、中館両医師による)所見を基礎とする鑑定意見の当否に関する所論について

古畑、中館両医師の本屍頭部の解剖所見を基礎とする所論鑑定意見というのは、「証拠」の部第五の〔一〕に掲げた古畑、中館両医師の各鑑定証言及び大槻、清水、中沢各医師の鑑定書記載の各鑑定(古畑、中館両医師については、罪証に供しなかった鑑定証言も存するが、これを証拠に援用しなかった理由については後出「第三」の項で述べる)がこれである。弁護人は、桂医師の「生前の症状を考慮に入れずして、受傷から死亡までの時間を鑑定することは軽率の誹を免れない」との証言(記〔4〕一七一六丁)を挙げて、これらの鑑定意見を不正確である如く論難するも、桂医師の右意見は、解剖所見のみを以てしては確定的な時間関係を鑑定し難いとの趣旨に過ぎないのであって、幅のある時間関係の推定をもなし得ないとの意でないと解すべく、右古畑外四医師の鑑定意見によると「数時間乃至十数時間、長くも二十四時間以内」という如く、最短と最長とを劃し、その間に頗る広い幅を持たせてある。これはこの点の鑑定が極めて困難なることを示すものであって、その故にこそ特に慎重を期して、広い幅を置いたものと認めるのが至当である。従って、受傷から死亡までの右推定時間の幅が広いために、該鑑定意見の不正確をいうならば、事の性質を弁えない謬見である。若し右推定時間を特に「何時間」と確定しているのであれば、その判定資料と比照し、余りの簡明さに、却って疑問の起る余地もあろう。しかしながら、前記の如く最短と最長とを劃し、その間広い幅を持つ鑑定意見を導き出すことは、斯界の権威の該博なる知能と豊富なる経験とを以てすれば、決して不可能視さるべきでなく、現に右の如き鑑定を下していることが、その不可能でないことを示すものである。その一証左として、たとえ所論仮定事実を考慮に加えても、自己の鑑定意見に変りはないとする清水医師の叙上証言を、茲に再び繰り返さざるを得ない。

〔四〕  解剖所見と臨床的所見との総合考按による鑑定意見(桂、中沢両医師)を是とする所論について

一般論としては、解剖所見のみによって判断するよりは、被害者の受傷後における臨床的所見をも加味し、両者の総合考按によって所論時間的間隔を判定するに如かざることは、異論のあるべき筈もないが、それには判定の資料たるべき臨床的所見が、被害者の受傷後における身体的症状を示すものとして、その正確性を有することを必須とする。然るに本件においては、所論仮定事実に現われた臨床的所見が、必らずしもその正確性を保し得ないこと前説示のとおりである以上、これを所論時間的間隔の判定資料に加えることは、寧ろその正確を期する所以ではなく、却って反対の結果を齎らす虞れがあるものというべきである。従って、所論仮定事実に現われた臨床的所見を判断の資料に加えた桂医師の「証言」及び「補充訊問事項に対する証言」と題する各書面に示された鑑定意見(桂医師は「証言」と題する書面記載の鑑定意見も、所論仮定事実を勘案したと述べている=記〔4〕一七一四丁、一七一五丁)並びに中沢医師の「補充訊問事項に対する証言」と題する書面に摘示された鑑定意見は、いずれも本件断罪の資料となすに値しないものといわざるを得ない。このことは、右鑑定意見の提示者たる桂医師その人が、前叙のとおり、古畑、中館各頭部鑑定書記載の解剖所見よりすると、所論仮定事実の如きことはあり得ないとしている一事によっても、思い半ばに過ぎるであろう。

〔五〕  幅のある受傷時判定の是非に関する所論について

本件被害者の死亡時と受傷時との時間的間隔に関し、若し簡明的確なる時間の鑑定が得られ、延いて受傷時刻を特定し得るならば、固よりこれに越したことはないが、それは前叙の如く、所詮望み得ないことであり、従って本件において、被告人を有罪と断ずるに当り、被害者の受傷時刻を特定し得ないことは万己むを得ざるところであり、又、強いて受傷時刻を特定する必要もないのである。兎も角、右時間的間隔につき最短と最長とを劃する一定の枠が示されている以上、その枠内において関係証拠を検討した上、該期間中に被害者と交渉を持った者のうちから加害者を判定することは、毫も差支えない筈であり、これを非とする理由を解し得ない。されば、被害者の受傷時即ち被告人の加害時についても、前叙の鑑定意見を示された時間的間隔の枠内において、判示の如く認定すれば事足りるのであって、かかる事実認定の方式は、夙に採られ来ったところであり、固より理由不備を以て目せらるべき筋合ではない。

第三、加害者論

叙上の如く、受傷時論の立て方によって、加害者を特定する範囲も必然的に異なって来るが、当裁判所は被害者の受傷時と死亡時との時間的間隔を「証拠」の部第五の〔一〕に説示したとおり「数時間乃至十数時間、長くとも二十四時間以内」と判定し、その前提の下に同第五の〔二〕乃至〔五〕に説述した理由によって、被告人を判示加害者と認定したものである。本件は、先にも一言したように、全く直接証拠を欠く事案であるため、諸般の情況証拠を総合して、これをいわゆる決め手とする外はないのであるが、凡そ通常の事態において、一定の結果の発生が充分推認される情況証拠の存する場合に、その結果の発生を否定するためには、これを否定するに足るべき特別の事由が証明されなければならない。然るに本項において弁護人の主張するところを概観するに、弁護人は所論時間的間隔を「二十四時間以前」であるとする見解に立脚し、これを前提として判示認定と相容れない異例の事由を挙げ、該事由の不存在を確認し得べき証左がないとの寸隙を捉えて、被告人の加害嫌疑を抹殺せんとするにあるものと解されるから、畢意、一般経験則を超越する独自の推断というの外はない。従って、右弁護人の主張については、逐一、判断を与えるまでもないようであるが、一件記録中には、弁護人の右前提に吻合する如き鑑定意見も存在するので、敢てこれに言及して、判示認定理由を更に解明することとする。

〔一〕  受傷時を大槻徹が大宮警察署に同行留置された以後と仮定した場合

大槻が、判示長倉村駐在の長洲忠男巡査から、大宮警察署に同行を求められたのは、昭和十九年一月二十日午後六時頃で、同署に到着したのが同七時頃であるから(記[2]九〇八丁、九一〇丁)、その後死亡までの三十四、五時間がこの場合における所論時間的間隔となるわけであって、これを肯定する鑑定意見としては、古畑医師の「最長二日」(昭和十九年五月十六日附予審証人訊問調書写=押一三、一六--四四問答」記〔1〕四〇一丁の二」記〔2〕一一四四丁)及び中館医師の「精々二日以内」(昭和十九年五月十五日附予審証人訊問調書写=押一三、一六--三八問答」記〔1〕三八二丁)が、これである。(中沢医師は「補充訊問事項に対する証言」と題する書面において、所論時間的間隔を「二十時間以前」としているが、その後右は「二十時間一寸以前」の趣旨であるとの釈明があったから--記〔4〕一七〇三丁--茲には除外する。)ところが、古畑医師の右鑑定意見は一般論であって、本件における所論時間的間隔は「最長二十四時間以内」である旨その後補正せられ(記〔3〕一四三四丁)、又、中館医師の右鑑定意見は、終戦後更に四十例程の解剖経験を重ね、その統計結果をも勘案して「二十時間内外」と訂正された(記[2]一四四七丁)ので、所論時間的間隔を判定する証拠としては、右の如く補正又は訂正された鑑定意見を採用したのである(「証拠」の部第五の〔一〕参照)。しかしながら、茲では念のため、右補正以前の鑑定意見に従い、その推定期間内に大槻に接する機会を待った人物について加害嫌疑の有無を検討する。尤も、右のうち大槻の死亡前二十四時間までの間に、被告人以外で大槻に接した者として「証拠」の部第五の〔二〕に挙示した看守巡査斎藤光之助、同小沢捨吉、同伊藤栄三郎及び同房者仲川六衛門については、同第五の〔三〕において、いずれも加害嫌疑のないことを説示したから、茲には省略する。(右仲川六衛門は大槻の大宮署到着以後の同房者であるから、本項おける大槻との接触者にも該当するが、同人に加害嫌疑のない点は、大槻との接触期間中を通じ、変りがないものと認められるから、やはり前説示を引用する。)

そこで、被告人及び前記斎藤光之助三名を除き、右期間中に大槻に接した者、換言すれば、大槻が大宮署に同行留置されてから、判示死亡の二十四時間以前までの間に、同人に接した者を探求すると

(1) 長洲忠男巡査--一月二十日午後五時前頃判示長倉村の飯場に、自転車で戻って来た大槻の姿を認めて、大宮警察署植田保刑事係巡査に連絡の上、午後六時頃右飯場に大槻を訪ね、大宮署に同行の旨を告げて幾分酔っている大槻を伴い、共に自転車を駆って約二里半の夜道を走り、午後七時頃同署に到着し、直ちに大槻の身柄を同署留置場の看守当番であった大津亥之吉巡査に引き渡し、且つ事務室に居合せた中井川勝寿巡査に対し、大槻の経済違反被疑事実を記載した紙片を手交し、これを被告人へ伝達方依頼して退署した。(差戻前の当審証人長洲忠男に対する訊問調書中のその旨の供述記載=記〔2〕九〇七丁乃至九一一丁)

(2) 大津亥之吉巡査--一月二十日午後五時から翌二十一日午前二時まで同署留置場の看守勤務に服した。(同人に対する昭和十九年五月七日附予審証人訊問調書写=押一五--三問答)

(3) 植田保巡査--同署の刑事係巡査であって、一月二十日午後七時過頃、大槻を賭博の被疑者として、同署応接室で五分か十分位取り調べた。(差戻前の当審第五回公判調書中証人植田保のその旨の供述記載=記〔2〕一一二〇丁、一二二三丁)

(4) 渡辺修警部補--同署の司法主任であって、一月二十日午後七時二十分頃から植田巡査の取調の後を承け、同署事務室の自席で大槻を約二十分位(聴取書作成も含めて)取り調べた。(差戻後の原審第四回公判調書中証人渡辺修のその旨の供述記載=記〔1〕二六〇丁、二六一丁)

を挙げることができる。そして、これらの者に限ることは、前掲各証人訊問調書並びに各公判調書中の同人等の各供述記載及び差戻前の当審証人斎藤光之助に対する訊問調書(記〔2〕八三〇丁以下)、予審の証人中井川勝寿、同桜井良一に対する各訊問調書写(押一五)中の同人等の各供述記載によって明らかである。

よって、前記四名について、個別に本件加害嫌疑の有無を審究するに

(1) 長洲巡査は、大槻を判示長倉村の飯場から前記の径路で大宮警察署に同行した者であるが、途中大槻は気楽に雑談を交しつつ、同行したことが認められ(長洲巡査に対する昭和十九年四月二十五日附予審証人訊問調書写=押一四--三四問答)、常識上よりしても、同行の任務のみを負う警察官が、妄りに被疑者に暴行を加うべき謂われもなく、記録に徴しても、同巡査において加害嫌疑を受くべき何等の証跡も存しない。

(2) 大津巡査は、単に看守勤務に服したのみであるから、前掲斎藤、小沢、伊藤各看守巡査について述べたと同様の理由(「証拠」の部第五の〔三〕参照)により、これ亦、加害嫌疑の対象から除かねばならない。

(3) 植田巡査は、大槻を賭博の被疑者として取り調べた者であり、その取調場所が同署の応接室であったことは、所論のとおり明認されるのであるが、この点に関し、同巡査は「大槻の取調に先立ち、既にその共犯者が総て自白しており、又、長洲巡査の報告によって、大槻が悉皆、被疑事実を白状し、頗る恭順の態度を示しておる由を了知し、大槻が今更、否認する如きことは予想し得ないので、特に同人を取り調べるまでもなかったが、渡辺司法主任の来署するまで、一応当って見ることにした。ところが、大槻は地下足袋を穿いていたので、これを脱がせて畳敷の刑事室で取り調べることを避け、簡単に取調のできる応接室を選んだものであり、事務室との境の扉は開放して置いた」と供述している(植田巡査に対する昭和一九年五月十日附予審証人訊問調書写=押一五--一二乃至一四問答」記〔1〕二八二丁」記〔2〕一一二二丁)。而も実際の取調に当っても、大槻は最初から一切を自白し、その取調時間も極めて短時間であったことは、前記のとおりであって、この点は当時、同署事務室において宿直勤務に服していた中井川勝寿巡査も、これに吻合する供述をしており(中井川巡査に対する昭和十九年五月十五日附予審証人訊問調書写=押一五--三乃至五問答)、この間いわゆる拷問等を加える余地は、全くなかったものと認められる。尤も、大槻との賭博の共犯者中には、所論のように植田巡査から暴行を受けた旨供述している者もあるけれども、その取調の経過顛末と所要時間等の関係を比照すれば、大槻の場合と同日に論ずることはできない。更に弁護人は、植田巡査に対し大槻が最初から自白したとの一事を捉えて、同巡査に加害嫌疑がないとするならば、大槻に対する被告人の一月二十一日午後の取調は、大槻自ら自白を申し出た後の取調であるから、一層、加害嫌疑がないものといわなければならない旨主張するけれども、両者の取調の実情を対比考量すると、その被疑事実の内容において、前者は後者より簡単である上に、既に取調前において共犯者の供述により、その全貌が明らかにされていたのに対し、後者は長洲巡査の前示報告書があるにしても、単に被疑事実の外貌が一応示されておるに過ぎず、改めて各個の違反取引の内容を究明する必要がある等、取調の手数に相当の相違があるばかりでなく、被告人は「証拠」の部第五の〔四〕に判示した如く、午後の取調においても、大槻の自供と長洲巡査の報告書との間に喰違いがあると認め、大槻の供述に、なお、疑念を抱いていたものと推量される以上、たとえ大槻から被告人に対し、自白を申し出た事実があるとしても、これがため直ちに植田巡査と同様、被告人に加害嫌疑がないものとすることはできない。このことは、次の渡辺警部補との関係についても、全く同断である。いずれにせよ、植田巡査も前叙の理由によりやはり、加害嫌疑者の圏外に列せしめるの外はない。

(四) 渡辺警部補は、植田巡査が大槻に一応当りをつけ、賭博被疑事件についての自白を確かめた後に、司法主任として同人を調べたのであるから、その取調は簡単に済ませ得べき筈であり、事実その旨を同警部補自身及び前記中井川巡査が確言している(渡辺=記〔1〕二六一丁、記〔3〕一四九五丁」中井川=前掲予審証人訊問調書写の六乃至八問答)。而して、他に渡辺警部補に加害嫌疑を掛くべき形跡は、記録上その片鱗も窺い得ないので、同人も加害嫌疑の埓外に置くのが当然である。

以上によって、前記長洲、大津、植田、渡辺の四名は、いずれも本件加害嫌疑の対象から除かるべきことを領解するに充分であるが、叙上の除外理由を暫らく措くも、若し大槻の受傷が、右四名との接触期間中である一月二十日の夜であるとするならば、翌二十一日午前十時以後の被告人の大槻に対する取調、殊に同日午後の取調に当って、大槻に何等の異常も認められなかったとは考えられないとする桂、中沢、古畑、清水各医師の鑑定意見(桂=記〔1〕五四二丁)中沢=記〔1〕五一九丁、五二〇丁」古畑=記〔2〕一一四五丁」清水=記〔3〕一六三八丁)並びに「証拠」の部第五の〔一〕に掲げた被害者の受傷時と死亡時との時間的間隔は、長くとも二十四時間を出でないとする鑑定意見に徴しても、前記四名に加害嫌疑のないことは、これを疑うべき余地がないのである。

〔二〕  受傷時を大槻徹が大宮警察署に同行留置される以前と仮定した場合

大槻が大宮署に同行留置されたのは、前記の如く昭和十九年一月二十日午後六、七時頃であるから、同人の受傷時をそれ以前と仮定すれば、判示死亡時との時間的間隔は三十四、五時間以上となるのであるが、この推定期間を肯定し「最長数日」(「最長数ケ月」とする鑑定意見--記〔2〕一〇八八丁--もあるが、右は本屍頭部の皮下出血を考慮に入れないものと認められるから、特に挙示しない)とするのは、桂医師の鑑定意見(記〔2〕一〇八七丁)であり、最長四十八時間の限度において肯定するのは、古畑、中館両医師の前掲補正以前の鑑定意見である。桂医師の右鑑定意見は、大槻の受傷後における身体的症状を示すものとして、その正確性を保し難い所論仮定事実を判断の資料に加えたものであるが故に、又、古畑、中館両医師の右鑑定意見は、その後補正されたため、いずれも、これを断罪の資料に供し得ないものと認めたことは、先に述べたとおりであるが、茲にはこれを論外として右推定期間を大槻の死亡数日前から大宮警察署へ同行されるまでと、それ以前とに分ち、各その間同人に接した者及びその見聞者の各供述等を総合して同人の動静を探り、該期間中における同人の受傷の有無を討究する。

(一) 先ず大槻の死亡数日前--証拠の関係上、一月十五日以降とする--から大宮警察署に同行されるまでの動静を見るに、大槻は娘トキ子の縁談を取り決めるのを兼ねて、いわゆる裏正月を福島県石城郡内郷村の妻子の許で過すべく、一月十五日判示長倉村の飯場を出発して、情婦長山八重子と同じ飯場の関ツルを伴い、水郡線大宮駅から乗車し、御前山駅で途中下車の後、同日午後二時頃同駅発列車に投じ、同夜水戸市に下車して右二名の女と共に旅館芝田屋支店に一泊した。翌十六日朝右両女に見送られて水戸駅を出発したが、その行先は不明であり、同夜何処で過したのか判らない。ところが、翌十七日午後六時頃になって妻子方を訪れ、そこで一泊し、その間隣家の湧井経春方に約三ケ月分の滞納家賃を支払っている。翌十八日には石城郡好間村の弟大槻新吾方に行くと称して出掛けた由であるが、同人方には同日午後二時から三時頃までの間に訪ね、間もなく妻の兄佐藤貞雄方に行くといって同家を去り、午後四時半頃平市の右トキ子の勤先に同女を訪ね、縁談の相手方である斎藤茂文とその父斎藤誠二に明日新吾方へ来て呉れるよう伝言して別れ、午後五時頃貞雄方に帰り、出された配給酒三合の半分足らずを飲み、一時間半位の後同家を辞去して午後七時頃新吾方に戻り、同家に一泊した。翌十九日には午前六時半頃起床し、同十時頃同家二階に来訪の斎藤誠二、その長男茂文及び大槻の娘トキ子と結婚の口固めをなし、午後三時頃四人打ち揃って同家を辞去し、バスを利用して斎藤誠二方へ行き、午後四時頃同女と共に同家を立ち出で、バスの停留所までトキ子の見送を受け、バスに乗って平駅に向った。その途中山岸幸作の留守宅に顔を出し、平駅において氏家庄治郎に会い、同人から大槻等の賭博事件が発覚し、赤上等共犯者が検挙され、大槻も警察から探されているから氏家と同道して所轄警察署に出頭すべき旨勧められ、明日初発列車で長倉に帰ることを約し、氏家と平駅から綴駅まで同乗し、同駅で氏家と別れて下車し、薄暮妻子の許に帰着、妻に対しトキ子の縁談成立等の話をして就寝した。翌二十日午前七時頃妻子方を出発、長男正治を背負った妻が、見送のため同行したので時間が掛り、結局、午前九時十分頃綴駅発列車で帰途に就き、午後二時半頃御前山駅に下車し、駅前の栗田イシ方でコップ酒を一杯馳走になり、同家に預けてあった自転車に乗り、一里余の道を通って、午後四時頃一杯機嫌で前記飯場へ戻って来た。氏家から同人の下宿へ来るよう話されたが、同人が立ち去ると、間もなく午後五時半頃、長倉村駐在の長洲忠男巡査が同行を求めて来たので、背広にジャンパー、ズボン二枚を重ね、オーバーを着て午後六時頃同巡査に同行され、同飯場を出発したことを、下記証拠により窺知し得るのであって、この間大槻に受傷その他の異状を認むべき事由は全くない。(長山八重子=押一五」関ツル、大槻トキ子、大槻フヨ、大槻新吾、湧井経春、斎藤誠二、山岸タン=押一六」佐藤貞雄=押=六及び記〔2〕九八四丁以下」氏家庄治郎=押一二及び記〔1〕四二九丁乃至四三一丁」寺田福三郎=押一四」長山ハル=記〔1〕一五一丁、一五二丁」長洲忠男=押一四及び記〔2〕九〇七丁乃至九一一丁」以上同人等の強制処分、予審、原審、差戻前の当審のいずれかにおける各自関係部分に照応する各供述記載参照)

尤も、前記の如く大槻が、一月十六日午前九時頃水戸駅を出発してから、翌十七日午後六時頃妻子の許を訪れるまでの同人の動静は、全く不明であるが、その前後に同人に接した者の証言によると、同人は終始元気で機嫌よく応接し、心身に何等の異状もなかったように認められるので、この事実と同人が温和な性質で、後記関政雄との口論の外は、曽て喧嘩をしたことを見聞しなかったとの親族知友の証言(大槻フヨ=押一六」氏家庄治郎=押一二及び記〔1〕四二四丁、同〔2〕一一六二丁、同〔4〕一八五三丁」長洲忠男=押一四等参照)とを総合すれば、前記動静不明の間に、同人が判示傷害を受けたとは、到底想像もつかないところである。

(二) 次に一月十五日以前の大槻の動静を探索するに、所論関政雄との喧嘩以外は、本件に関し特記すべきものを発見し得ない。成程、大槻と関政雄とが、所論のような事情から、当時不仲であったことは、記録上明らかであるが、予審の証人山岸幸作(昭和十九年五月二十六日附第二回訊問調書写=押一三--一乃至八問答)同三村権之介(同年五月二十七日附訊問調書写=押一六--一〇問答)同長山ハル(同年五月二十六日附第二回訊問調書写=押一六--一乃至三問答及び記〔1〕一五二丁、一五三丁)等を総合すると、大槻が一月十二、三日頃、判示加最炭坑今井坑の名目子沢事務所の前附近で、関政雄と口喧嘩をしたことはあるけれども、殴合い等の暴力沙汰には及ばなかったことが認められ、右以外にこの両名が喧嘩をしたこと、殊に一月二十日大槻が福島の妻子の許から判示長倉村の飯場に帰来後、長洲巡査に大宮署へ同行されるまでの間に関政雄と喧嘩をしたかも知れぬとの所論想定事実は、これを首肯し得べき何等の根拠も存しない。

なお、大槻が判示死亡より数日以上前に、判示の傷害を受けたものでないことは、次の鑑定意見によっても確証される。即ち、桂医師は「証言」と題する書面において「大槻が当夜就眠まで全く異常なく起居したと仮定すれば、出血は就眠後に起ったもので、受傷は数日前であると考えられる。数日より更に以前でもあり得るが、頭部皮下出血の存在がこれを否定する」(記〔2〕一〇八七丁)と記述し、これに照応して古畑医師は、差戻前の当審第五回公判において「本屍頭部の軟部組織間出血部分は、それだけなら幾らも日数を要せずに癒ると思う」(記〔2〕一一四三丁)と証言しているからである。

第四、その他の所論

〔一〕  本件における伝聞供述に関する所論について

上来縷述の如く、本件においては、いわゆる直接証拠を欠くために、総ていわゆる情況証拠によって事実を判断する外はなく、本判決も「証拠」の部に列記した諸般の情況証拠を総合考按して判示犯罪事実を認定したわけである。而して、右情況証拠のうち所論伝聞供述については、最初の伝聞者に擬せられている四倉繁作本人が、伝聞の事実を否定するため同人より伝承したと称する氏家庄治郎等の供述の信憑性が取り上げられているので、これについて討究する。

所論氏家等の伝聞供述の内容は、証拠の部第五の〔五〕に摘録したとおりであるから、茲にこれを引用するが、要するにその伝聞の径路は、記録によると、被告人から四倉繁作へ、四倉繁作から氏家庄治郎、山岸幸作、寺門弥十郎、四倉幸義の四名へ、更に右四倉幸義から綿引清寛、石川正美、寺門日出男へということになっている。而して、被告人は四倉繁作に対し、「ヤキを入れた」云々の如き話をしたことは絶対ないと言い張り、四倉繁作も被告人からその話を聞いたことを極力否認し、なお、四倉幸義も四倉繁作から右の話を聞いた覚えはないと言い切っている。そこで、若し被告人が、全然その言葉を四倉繁作に発せず、四倉繁作も氏家外数名にこれを伝えなかったとするならば、本件の所論伝聞供述は、悉く氏家等の作為した虚言とならざるを得ない。しかしながら、前記氏家等の各伝聞供述に徴すると、その内容をなす被告人の言辞は、根拠なくして無造作に発し得べき空言とは受け取られない。尤も、氏家等の各伝聞供述中の被告人の言葉使いには、その間多少の異同があるけれども、これは伝聞の性質上、得てして誤伝誤聞が伴い易く、而も本件の如き伝聞の伝聞というに至っては、時の経過と共に伝聞者の主観も繰り込まれ、或る程度の相違や、くいちがいを来たすのは、蓋し免れ難いところといわなければならない。而して、これら伝聞供述のうち、伝聞の時期において最も早かったのは、氏家庄治郎と山岸幸作であり(大槻の死後間もない一月二十二日朝)、且つ、この伝聞内容は、その数日後に氏家から弁護士正木昊に語られ、その要旨を同弁護士自ら便箋に筆記しているので(正木昊に対する昭和十九年五月十九日附予審証人訊問調書写=押一三--一一、一二問答」及び記〔4〕一八七九丁、一七八〇丁)、その筆記された便箋のメモが最も真相を語るに近いものということができる。ところで、右便箋のメモは、同弁護士から予審判事に提出押収されており(押六)、その内容及び趣旨は「証拠」の部第五の〔四〕に摘記したとおりであるから、茲に繰り返さないが、これによって一月二十二日に四倉繁作から氏家等に対し、同月二十一日被告人が大槻の供述と長洲巡査の報告書(押二の(ロ))との喰違いを追究して、大槻にいわゆる「ヤキ」を入れた旨被告人より聞き及んだとの趣旨の話をしたことが看取せられ、この辺が本件における伝聞の真相を穿つ本源と見て、間違ないと思考せられる。一方、被告人はこの点に関し

一月二十一日夜高岡午義方で備された祐川特高係巡査部長の壮行会の席上、四倉繁作から「大槻をどうしたつぺ」と尋ねられたので「今日調べたが、大したことはないから直ぐ帰す」と答えると、同人は「少しばかりの闇を挙げるには及ぶまい」というので、自分が「大きくても小さくても、闇をやった者は片っ端からブチ挙げるのだ」というと、同人は「挙げてもよいから早く調べて帰して呉れ」と申したので、自分は「そんなむつかしい話は止めて歌でも歌うべえ」といって、その話を止めさせた。「ブチ挙げる」というのは、犯人を検挙するとの意味であるが、四倉繁作はこの言葉を暴行するという意味に誤解したのではないかと思う(被告人の差戻後の当審公廷における供述--記〔3〕一三九五丁」同人に対する昭和十九年四月三日附第三回検事聴取書写=押一二--五項」同年四月十九日附第四回予審訊問調書写=押一三--三七問答」同年六月二日附第六回予審訊問調書写=押一四--四六乃至五〇問答」同年六月四日附第七回予審訊問調書写=押一三--三問答」同年九月十四日附差戻前の原審公判調書写=押一四--中の被告人の供述記載」昭和二十二年二月十日附差戻前の当審公判調書中の同上供述記載=記〔2〕六九六丁)

と述べ、これに対して四倉繁作は「証拠」の部第五の〔四〕に一部摘記した如く一月二十一日夜高岡午義方で、大塚部長に「昨日頼んだ加最炭坑の者来ましたか」と尋ねると、同部長は「来るのは来た、調べて見たところ大したことはないが、一寸喰違いがあったので今日は留めたが、明日は帰せるだろう」というので自分が「大したことがないから、そんなにやかましく調べないで帰してやったら宜いじゃないか」というと、同部長は「どんな小さいことでも調べなければならぬ。こんなことは、こういう席で喋舌る問題でない。そんな話は止して特高を盛んに送ってやろう」といったので、話はそれで打ち切った。その際大塚部長から「今日少しヤキを入れてやった」とか又それに似たような言葉は、全然出なかった(昭和十九年十月六日附差戻前の原審公判調書写=押一四--中の証人四倉繁作の供述記載」昭和二十一年七月五日附差戻後の原審公判調書中の同人の供述記載=記[1]二三〇丁乃至二三二丁」同人に対する昭和二十二年五月二十二日附差戻前の当審証人訊問調書中の供述記載=記〔2〕八〇四丁乃至八〇六丁」同人に対する昭和二九年二月三日附差戻後の当審証人尋問調書中の供述記載=記〔4〕一八〇一丁、一八〇二丁)

と述べている。

よって、被告人と四倉繁作との右各供述を比較対照すると、大槻に対する取調のことに関し、右両人の交した対話の筋は大体一致しておるが、ただ被告人が「大きくても小さくても、闇をやった者は片っ端からブチ挙げるのだ」といったと称する分に当るべき被告人の言葉として、四倉繁作は「どんな小さいことでも調べなければならぬ」と答えたと証言し、いわゆる「ブチ挙げる」という言葉を被告人が使ったこと及びその意味について何等言及するところがなく、この点において両者の供述に吻合しないものがあるといわなければならない。而も、原審及び当審における四倉繁作の証人尋問に、その都度立ち合った被告人としては、右の点につき同証人に対する尋問の請求をし、又はこれを尋問して事の真相を確かむべき機会が充分に与えられていたわけであるが、右四倉繁作の供述が自己に有利であるところから、自己の供述とは照応しないままで、この点を確かめようともせず、漫然放置したことも首肯し難いところである。本件発生当時、四倉繁作が被告人の身上について、特に不利な供述をなすべき関係にあったとは、記録上その片鱗も窺い得ないので、かような立場の四倉繁作が氏家等に洩らした前摘録の伝聞供述は、被告人の言辞をそのまま伝えたものと見るべきである。又、四倉幸義は、繁作から「ヤキを入れた」云々の話を聞いた覚えはなく、従ってこれを他に洩らす筈もないと強弁するも、差戻後の当審証人綿引清寛、石川正美、寺門日出男等に対する尋問調書中の各供述記載及び前同証人正木昊の当公廷における供述を総合すれば、右四倉幸義が旧大場村国民学校において、被告人が本件加害者たることを端的に裏付ける事実を、繁作より伝承した旨右証人等に洩らした消息を窺い得るので、本件におけるこれら一連の伝聞供述は、いずれも信を措くに足りるものというべく、これを目して所論のように荒唐無稽のものであるとするのは当らない。

〔二〕  本件に対する最高裁判所判決の破棄理由に関する所論について

弁護人は差戻前の当審有罪判決を破棄した最高裁判所の判決理由は、右差戻前の当審判決が、証拠によらないで事実を認定した違法があるというにあるから、右当審判決において断罪の資料とした証拠以外に、更に新証拠が発見されない限り、最高裁判所の破棄理由として示された判断に反しないで、再び有罪の認定をすることは不可能であると主張する。しかしながら、所論最高裁判所判決の多数意見である破棄理由は、決して一件記録並びに原審及び差戻前の当審において取り調べた全証拠によるも、本件を有罪と認定するに足らないというのではなく、要するに差戻前の当審判決が、被害者大槻において、昭和十九年一月二十一日午後八時半頃、就寝するまでに、脳出血による何等かの身体的症状を生じたことを前提として、同人の受傷と死亡との時間的間隔を判定し、同人の受傷時刻を同日午前十時頃と認定しているけれども、右身体的症状を生じたことを認定するための証拠が、明らかにその証拠の趣旨と矛盾し、且つ、同判決には他にこれを認定するに足る証拠がないから、理由不備の違法があるというに帰することは、右最高裁判所判決の多数意見に関する判文上明らかである。従って、大槻の受傷と死亡との時間的間隔を判定する資料として、同人の受傷後における身体的症状を基礎としないばかりでなく、同人の受傷時刻を局限しない本判決と、右身体的症状の発現を前提として、これを右判定資料に加えた上、同人の受傷時刻を局限した差戻前の当審判決とは、右の点につき全くその判定基準を異にしているので、たとえ差戻後の当審において、大槻の受傷後における身体的症状に関し、新たな証拠が発見されないとしても、以て被告人を有罪と断ずるにつき、最高裁判所の右破棄理由と何等抵触するものではない。

〔法令の適用〕

法律に照らすと、被告人の判示所為は刑法第百九十五条第一項(本条は本件犯行後に施行された昭和二十二年法律第百二十四号により刑の変更があったので、刑法第六条第十条に従い軽い旧法の刑を適用する)第百九十六条第二百五条第一項に該当するから、重い傷害致死罪の所定刑期範囲内において被告人を懲役三年に処し、同法第二十一条により原審における未決勾留日数中百八十日を右本刑に算入すべく、訴訟費用は旧刑事訴訟法第二百三十七条第一項に則り全部被告人をして、これを負担せしめることとする。

以上の理由により、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 坂間孝司 裁判官 堀 義次)(裁判官 鈴木勇は退官)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例